地球の眠り
が死んだ場合の予言の詩だから。あくまでも警告に過ぎない。フジの愛する人
が教えてくれたんだよ、?そうなってはいけない?ということを。今言ったこ
とを絶対に忘れないでほしい…それが僕達の最大の願いさ。な?」
下弦は上弦の顔を向き、応答を求めると、上弦はふん、と声を発し、唇の端
を上げて、深く頷いた。僕は下弦が自殺する前、精神不安定ながらも、勇気を
出して僕に話しかけてきてくれたことを思い出した。その時の僕はその病状に
嫌悪感を感じて、下弦を無視し続けてしまった。後悔が今になって襲ってきた。
下弦を見ると、全て僕が感じていることを悟っているとでもいうように、かつ
て見たことのない柔い笑みを浮かべながら首を振った。僕は涙が溢れてきた。
「じゃあな」上弦は相変わらずクールだった。
「うん」
「…さようなら…」下弦は最後まで優しさを失わない口調で言った。
「うん…」
そう言い終わると、二人は体を離し、互いの片手を薄暗い彼方に向かって伸
ばした。
僕は頭を下げ、二人の指し示す方向へと歩いていった。暫く歩いた後に、振
り返って手を大振りすると、二つの光がキラリ、と光ったような気がした。僕
は体を元に戻して、胸が次第に苦しくなりながらも、濃くなり始めた暗闇の中
を歩き続けた。
気が付いて瞼を開けると、其処は夕暮れのカーブの道路だった。前を向いて
も、後ろを向いても、此処だけが急な曲線を描いていて、両方とも後は果てし
なく直線道路が続いているだけだった。
「…今度は僕達が助ける番、ってことか。今までの経緯、今度は僕達が君の立
場になって見せてもらったよ」
と突然後ろに現れた夢を見ている僕(以下新月)は皮肉っぽく笑って言った。
「此処はまだ夢の中の夢だよ」
「君達…一体どういうこと?」
「今まで君は夢の中で夢を見ていたんだよ。僕達は君の夢の中で、君の夢の一
部始終を見ていたんだ」新月の隣に立っていた青年(以下満月)も笑顔でそう
答えた。
「此処は何処?」僕は彼らに尋ねた。
「忘れたのかい? 君自身が一度来たことがあるだろう? 此処は彼女が死ん
だ場所だよ」
「スピードを出しすぎて曲がりきれなかったって、警察が言ってたじゃない」
と新月と満月は続けてそう言った。
僕はもう二人の僕の出現に脅えに似た驚きを隠せないでいたが、すぐに平常
心を取り戻し、記憶を思い起こしてみた。
「…うん。確かに此処は彼女が彼の車に乗って事故に巻き込まれた場所だ」と
僕は記憶と照らし合わせながら言った。
足元から長い影を伸ばしている新月と満月は頷き、ずっと黙っていた。彼ら
には僕の言葉が必要なようだった。
「…僕達が助ける、ってどういうこと? 僕は自分でも自分に何が足りないの
かさっぱり分からないんだ。さっきの夢を見ていたのなら分かると思うけど、
僕は彼らに、?【地球の眠り】のようになるな?、って言われたけど、正直ど
うすればいいか分からないんだ。自分に素直になれ、ということは理解できた
けど、心を開くということは実際、どういうことを意味しているのだろう? と、
考えてしまうんだ…」
「僕達が身代わりになって、これからやって来る彼女の乗った車を止めるんだ」
新月は急いでいるようにも、諭しているようにも聞こえた。
「何だって!?」僕は驚愕した。
「僕達がこの急なカーブより前で車が接近して来た時、歩道から飛び出して車
を急停止させる。そうすれば彼女やその彼はカーブで曲がりきれず死なずに済
む。.然に防ぐんだ。そして君は悲しみから抜け出し、彼女への愛する気持ち
が吹雪を止ませ、気温を上げ、空を晴れ渡らせ、太陽の光が降り積もった雪を
溶かし、春の陽気に戻った彼女のいる想像の世界へと戻るんだ。想像の世界か
ら彼女は現実に現れることはできないけれど、君の心は回復し、力強く生きて
いける。つまり、簡単に言うと、僕達が君の傷を癒す役割を担う、というわけ
さ。.練は無いよ。今までの生活でそれで十分楽しかった。そしてもう二人の
僕に出会うことができたことがすごく嬉しかった。君もそう思うだろう?」
「うん。僕達は君の創造物であり、君自身でもあるけど、末当の自分の為なら、
命なんて喜んでその宿命に捧げていいと思う。僕達を生んでくれたことへの恩
返し、って言ったら変だけど。君が悲しみを取り除かれた後、夢から覚めたら
彼女に一言言っておいてくれないかな?」
「…何をだい?」僕は涙を沢山溜めながら満月に尋ねた。
「?僕が君を想っていたのは、この物語が始まる前、いや、生まれた時からで、
決して死んでる今も君が愛している人の想いを投影していたんじゃなくて、僕
自身のものだった?ってことをね。言ってほしいんだ。結局僕の恋は実らなか
ったけれど、僕の中では恋じゃなくて?大人として成熟すること?も望んでい
たんだ。そして僕は君のお陰で大人になることができて、彼女の為にも死ねる」
「分かった。伝えておくよ」僕は言った。夕日の光が.しだけ強くなったよう
な気がした。罪悪感が浄化し彼らの優しさが白く心を満たした。雪のことでは
無い、それは凍り付いた心の中で発光し暖められ続けているのだ。
「心を開く、っていう意味がもう分かっただろう?」と新月は覚悟を決めさせ
るように、また、寛大な口調で言った。
「…うん。…彼女の死を受け入れて、新しい世界を自分で切り開くということ
だね? その為にはどの位の時間がかかるか分からない。でも、彼女のことは
思い出という形で大切に胸の奥にしまっておくよ」
「その為に地球は眠りに就いているんだよ」と満月は僕の心を優しく包み込む
ように言った。
「それでいいのさ」新月はうっすらと涙を浮かべて、笑った。
僕は二人の元へ歩いていき、固い握手を交わし、再び滲んできた涙を拭いた。
彼らの表情は実に清々しかった。僕も笑って、深く頷くと、「もうそろそろお
別れの時間だね」と満月は呟いた。
「さようなら」僕はそれぞれ僕の元から巣立とうとしている二人に言った。
「さようなら」満月は僕と同じ言葉を返した。
「御達者で」新月は名残惜しいのか、少し言葉を変えて言った。
もう一度言いたくなって、今度は一音一音噛み締めるように「さようなら」
と言った。二人は晴れ晴れとしたすっきりした表情で、お互いの視線を合わせ
て、僕が意識を取り戻した時に立っていた位置から反対側に延びる車線に向か
って、ゆっくりと歩き出した。僕は彼らと彼らから伸びる影をじっと見送って
いた。夕日に滲んだ景色はそれらが見えなくなってもいつまでも光り輝いてい
た。
暖かい感じがした。意識がはっきりとしないながらも、夢から覚めたという
感覚を覚えた。しかし体は中々言うことを聞いてくれなかった。遠くから僕の
名前を呼ぶ声がした。僕は自分には聞こえなかったがそれに応答する言葉を発
した。それが何度か繰り返されていく内に、どんどんその声は大きくなり、や
がてはっきりと聞こえてくるようになった。その言葉は柔らかいものだった。