顔 下巻
小山は警察のとある研究所で事務の仕事を得ていたが
トラウマ状態が酷く精神科で治療を受けていた。
ある日、ある医者の影に怯え、錯乱状態に陥った。
その日以後、彼女は入院生活を送っている。
駐在勤務となった大川は、山間部の部落の駐在所で、
後任の駐在に引継ぎをしていた。
「ここは、安全で平和なところだから」
と若い後任者に告げると
後任者は「あまり何もないと鈍っちゃいますよ」とおどけるが。
大川はつぶやいた。
「あんまり大きなヤマは・・やめといたほうがいいよ。」
そういうと、手荷物ひとつ下げて、駐在所を去っていった。
大川は、思い出すのを避けてきたが。
一之瀬が、ただ何かによって殺されたのではない、と思っていた。
きっと死だけではない、想像もつかないような、途方も無い責苦に
それも恐らくはながいこと・・永劫という字が
あてはまるかはわからなかったが。
苦しめられ続けるのだろう、と。思うことにした。
通常では考えられないものが、この世のどこかに。
いや、すぐ後ろにいて。
だが、触れてはいけない。見てもいけない。
ただ、そういうものが、確かに・・あるのだ。
と思うことにした。
町へ向かう最終バスの客は、大川だけだった。
漆黒の闇の中を走るバスはトンネルの前にさしかかると
女の客を乗せた。
女は大川の隣の席に座った。
さしこむオレンジ色のライトの光の中
大川は女の顔をみると、視線を逸らして云った。
最初に見たときは心臓が止まるほどのショックを受けたものだが。
いまでは、その女の顔を見るのにも慣れていた。
「また来てくれたのか。でも、今日で警官は終わりだ。
もうわざわざ来てくれなくてもいいよ。」
だが、大川は新たな戦慄を感じた。
女の向こうに日本人ではない老いた夫婦がいたのだ。
そしてこの夫婦は、いや家族は。
心からではないにしても、優しい微笑を大川に向けたのだ。
例え事件が解決しても。
例え犯罪者が捕まっても。
例え犯罪者が刑期を終え、更生できたとしても。
犯罪被害者遺族の心の傷は癒えることは無い。
まして、日に日に重なる喪失感に、傷は更に深く深刻になる。
そして、心の傷が、時に最悪の結果を生むこともあることを。
大川は経験上、知っている。
何度か目には、それらは余りに辛く
大川は精神科に掛かったこともある。
そして、いま女の向こうで微笑む老夫婦達が現われたことは
最悪の結果になってしまったことを物語っているではないか。
警察官として。
いや人間として。
そんなことは、どうでもよく、ただひとりの年老いた男として。
込上げる自責の念。後悔の念。
そして図らずも係わってしまった自らの不運を。
大川は嗚咽を上げて、うずくまった。
すると女はThank you と言い残し、一家は消えた。
他の言葉を理解する英語能力は、大川は持ち合わせていなかった。
大川は、バスの中でひとり涙に暮れた。