釘の靴
…ふわぁぁ…少し話疲れちゃった。どう? 何か私のことについていい参考に
なった? あんたの良い返事、期待してる!!」
そう言い終えた彼女の表情はひどくやつれて映った。今度やって来た沈黙は
自分のためだけに存在する沈黙であった。実際、そうであってほしかった。
…絶句。
言葉を失った。意識が体の何処にも見当たらなかった。辺りを見回した。そ
れは腕時計にあった。
「時刻。」
午前零時一分。
これは昨日から続く沈黙ではない。常に更新し続けている静けさに似ていた。
何処かの宗派の末山寺にある、あの何ともいえない荘厳な静寂と似ている気が
した。.だに喉の奥にある奇妙な空気のつっかえがまだ原形を留めている。こ
こに掃除機があればよかったのにな、と思った。そうすればこの喉の具合悪い
感触をきれいさっぱり抜くことができたのに。彼女を罵倒した所有者不定の無
数の暴力的な言葉が心の中で自分自身の沈黙を大量に生産し続けている。それ
らにストップをかける。もちろん無視された。それも見事に。無神経な質問を
してしまったせいで、彼女は思い出したくもない記憶の破片によって深く深く、
とても深く、傷ついてしまったに違いない。
「…僕の責任。」
言いようのない脱力感。
まるで霊に取り付かれたみたいに。疲れた。末当に疲れた。彼女になんと答
えればよいか全く分からなかった。胸には彼女に対する同情心と淡いメタグリ
ーン色の小さな恋心とキスしたい欲望と抱きしめたい気持ちが溢れていた。
かぐや姫が違う世界に住む国の使者によってあの月に連れて行かれるまで
ずっと。その行為を彼女が拒むのならもちろん諦める。もう誰にも彼女を傷つ
けさせたくない。たとえ当の彼女自身にしても、だ。
月が雲に隠れた。辺りはほぼ完璧に真暗くなってしまった。もう何も夜の闇
に抵抗できる反逆者は見当たらなかった。星の光だけで現在の彼女の表情を照
らし出すことは困難だった。ほとんど何も見えない。動物の鳴き声をこの森に
来て初めて聞いた。暗く寂しい遠吠えだった。声の主は一体誰に何を訴えたい
のだろう?
無力感が首筋から肩へそして腕へと…
かぐや姫の清らかな笑いが膝から腰へそして胸元まで這い上がってきて…
…
虚無感をゆっくりそっと包み込み、胸のどうしようもないずきずきとした痛
みをところどころに白い斑点のある生温いピンク色のトロトロした液体が吸
い取って、己の傷口を塞いでいく。それは使命を果たし終えると末体から分離
し、地面に降りてそのまま土に紛れてなくなってしまった。この一連の体験も
また.なるイメージなのかもしれない。
「…ねぇ? 何かいい考え思いついた?」
彼女は早く早く、私、もう待ちくたびれちゃったよ、みたいなかなり無理し
た口調で返答を促した。女の子の小さくて整った顔は暗闇の空間にぽつんと浮
かんでいた。それは誰かが夏の肝試しか何かで誰かを怖がらせようとして木の
枝に吊り下げたお面のようにも思えた。やはり美しいものだった。またその光
景にうっとりしていた。けど今回は前回とは打って変わって、彼女がもう一度
同様の言葉を耳の中へと強引にギュウギュウと押し込めると、意識のスイッチ
がカチャリガチャン、と音を立てて再起動し始めた。
女の子に尋ねた。「…何? 今、何て言ったの?」
「はぁ…。」彼女はホントあんたにはうんざりしていますとでもいった口調と
視線で溜め息をついた。
「…あんたってホントにイライラする…だ、か、ら!!! さっきから私にあ
んたの考えを教えてって、何度も言っているから! ちょっとあんた、耳遠す
ぎるんじゃないの! …このバカ! それとも私と違ってとびっきり頭が悪
いとでもいうの!!」彼女はまた溜め息混じりにきっ、と睨みつけた。あぁ、
そう言えばそうだった、ごめんごめん、といったわざとらしい表情で彼女の怒
りを真に受けずに済ませた。
「ちょっとぼおーっとしてただけだよ…悪かった、悪かったよ……なんだか急
に色々な疲れがどっと押し寄せて来ちゃってさぁ…うとうとしてきたもんで
つい…。」気分は相変わらず曇り空のようにどんよりしていた。
…あーぁ、なんでさっきあんなひどいこと彼女に尋ねちゃったのかな…きっ
と彼女、すごくショック受けてるよなぁ…がっくりがっくし。
けど今の女の子の表情からはそういう影響は微塵たりとも感じられなかっ
た。…もしかしたら立派な大人みたいに、とっても立ち直りが早いのかな?
そんな段違いに逞しい彼女が言う。「こんなところで寝ちゃ駄目よ。冷たくな
って死ぬわ。ああいう死に方だけは最も惨めでしょうがないから。」
彼女の顔が浸っている冷ややかな闇を見つめた。「…君はそういう人間達を
何人も見てきたの?」
「うん、ちょうど毎年今頃の時期に私のところへやって来た人達はみんな大体
一晩中、暖かい格好せずにぐっすり眠ったまま朝になっても目を覚まさないこ
とが多いね。カチンコチンに冷たくなる。よく彼らの周りにはすごく変な色や
嫌な匂いのする液体の入った瓶や透明な袋から小さくて白い粒や粉状のもの
が地面にばらばらに飛び散っていたりしていてね、それを動物や虫達が興味末
位で口に運ぶとその場でぱたん、と倒れてそのまま動かなくなっちゃう。だか
らホントに眠たくても眠っちゃいけない。きっとこの山には悪魔が住んでいる
のよ。そして眠りに落ちて抵抗する力が無くなった生き物の命を奪っていくに
違いない。私はそう推理した。」彼女は真顔だった。
「…その死んじゃった人はどうなったの?」「どうなったかって? 何が?」
「えっ?」一瞬、胸元辺りの血流が増したような気がした。「…いや、その、
あの、だから、ここで死んだ人間の体は一体何処に行っちゃったの? 死んだ
後はどうなっちゃったのさ?」
「…何処に行って、それからどうなっちゃったのかなんて、それはもちろん…
…」かぐや姫は口ごもった。
…もしや……。
嫌な予感が背中を駆け巡る。そして彼女の言葉は見事に的中させた。
「そのまんま放っておいたに決まってるじゃない。もう肉も骨も腐って粉々に
砕けて残りは動物や虫達に食べられちゃったみたいだけど。ちょうどあんたの
今座ってるところがそうじゃないかな。」
「ひ、ひ、ひ…ぃぃぃぃぇぇぇぇぇ!!!」 その場からロケットの如く勢い
よく飛び上がり、彼女の腕にしがみついた。全身をガタガタブルブルと携帯電
話のバイブレーションのように絶えず震わせる。
「何? 男のくせに! まったくだらしがないったらありゃしない!!!
しっかりしなよ!」彼女は名高い山脈のように眉をつり上げた。「大したこと
ないじゃない! たかが何人かの人間の死体がそこに埋まっているだけでし
ょ? この度胸無し! …まぁ人間の体が腐っていく光景を間近で眺めるの
はツラい、といえばツラいけど……特に匂いとかが耐えられないけど…とにか
く、あんた早く私から離れなさいよ! あぁ、腕が痛い!」