釘の靴
今日で果たして何回目なのかさっぱり分からない測定不可能な沈黙がまた
ひょっこり尋ねにやって来た。もちろん彼の訪問は大歓迎だった。時間の流れ
る方角を感じることができる。漆黒の風向きがそれだ。目を閉じる。瞼の裏側
がひんやりしていて気持ちいい。眼球の奥から微熱が薄れていった。
「うーん…難しい質問だ…。」精一杯考え込んだ。溜め息一つ。咳払い二つ。
そういえば喉が渇いた。お腹もさっきから頻繁に鳴っている。はっと思い出し
て背中のリュックサックを降ろし、逆さまにしてお茶の入ったアルミ製の水筒
とポテトチップスの袋とでっかいチョコバーと、飲みかけの二百ミリリットル
のスポーツドリンク二末とミックスキャンディー十一個と、ペーパータオルに
包まれたビーフジャーキーの端切れを出した。お弁当箱は使い捨てのプラステ
ィックケースで昼間山頂のゴミ箱に捨てたんだけど、なぜか紙製の割り箸入れ
だけが残っていた。きっとあの時捨て忘れたんだろう。どれもみんな長時間.
に打たれていたり崖から勢いよく転がり落ちてしまったせいか、外見も中身も
びしょびしょに濡れて湿気っていたり、変な形にへこんでいたりぐにゃぐにゃ
に曲がっていたり、粉々に砕けたりしていた。
その中からまだ口に入れられそうなものだけを厳選して食べ、水筒からまだ
辛うじて湯気の立ち昇る番茶を蓋へ満杯に注いで一気に喉に流し込んだ。それ
からまたこぼれるくらいの量まで入れてそれを女の子に差し出した。
「ところでどう? 君も飲まない? 体がだいぶポッカポカになるよ。」
「いらない。私はそういうものを食べたり飲んだりしなくても全然平気だし。
一言で言えば、あなた方人間みたいにお腹が空くことがないよ。だからお構い
なく。」
「ふーん…。たべもの食べないで平気だなんて羨ましいなぁ。嫌いなたべもの
とか無理して口に放り込まなくていいんだもの。…僕の嫌いな玉ねぎとかニン
ジンだとかさ。いいなぁ。」
うなだれる仕草を見て女の子は少しだけ微笑んだ。
「別にあなた方のようにたべものを食べることができないというわけじゃな
いし。ただ.にあなた方みたいに、口に入れたたべものを胃や腸で?消化する
ことができない?だけ」
「…消化できないんだったらそれじゃあ、お腹の中のたべものは一体どうなる
の?」興味津々で彼女の話の続きを待った。
「?吐く?のよ。」彼女は何のためらいもなくきっぱりと言い切った。「だっ
てそのまま胃の中にたべものを残しておいたら、すぐに腐っちゃって食道を上
昇して口の中の息が臭くなるから。ちょっとあの匂いには我ながら耐え切れな
いからね。だからたべものを食べるって言ってもその味や匂いを満喫すること
ぐらいしかできないし。たまに無意識のうちにそのまま飲み込んじゃうことも
あるけど」
少しの間、言いようのない沈黙が大人しく黙らせてくれていた。しかし、そ
の重い空気に我慢することができなくなり静寂をからからに乾いた笑い声で
追い払い、話題を変えることにした。
「…ハハハ、なるほどね……あっ、そういえば僕、まだ君の名前聞いてなかっ
たよね? …名前、何ていうの?」
かぐや姫は顔を上げて水筒をとろんとした目つきでぼんやりと見つめてい
た。やがて彼女はぼそっ、と全くやる気のない返事をした。
「…ない。そんなモノ。無い。」
「名前が?」またまたびっくりしてしまった。「まさか! じゃああだ名とか
ニックネームとかでもいいんだよ。誰か今までに君と出会った人の中で、君を
何か特別な呼び方で呼んでいた人間はいなかったの? よく思い出してみて
よ。絶対に経験あるはずだよ。」
かぐや姫は華麗に首を振った。「ない。私がない、って言ったら絶対無い。
しつこい。そんなものが一体、私の個人的な質問に何の関係があるっていう?」
彼女に負けないくらいなるべく美しく首を振った。「いやいや。これから先、
君の質問に答えるにしたってさぁ、名前とかニックネームがなくっちゃスムー
ズに進みようがないじゃない? それにかつて君が誰かになんて呼ばれてい
たか知ることによって、何か君について新しい発見や解決の糸口が見つかるか
もしれないな、と思ったんだ…。
…ほら、ことわざでもよく使うじゃない…あれ、何だっけ…えぇっと……あ
ぁ、そうそう、?名は体を表す?ってさ…だから何でもいいんだよ。君が思い
出せる限りでいいからさ、君のペースでゆっくり。ねぇ? なんでもいいから
何か思い出してくれないかなぁ?」
自分にとってはナイスアイディアに思えた提案は彼女には幾分不服そうに
映ったのだけれど、何となくなら…といった感じで微妙に頷き返してくれた。
「…でも、あんたにそう言われてよくよく考えてみたらそういうあだ名みたい
なものが私にもあったのか、って言われればあったかな。確かにあったような
気がする。」
ほっと胸を撫で下ろして溜め息をついた。「やっぱそうなんじゃん。あーぁ、
心配して損したよ…で、なんていうの? 今までに言われたあだ名って、どれ
くらいあるの?」
彼女は素敵な顎に人差し指と親指を立ててつくったピストルを当てて、難事
件を解明しようと必死に推理している美少女探偵にも見えなくなかった。彼女
はうーん、と唸って長い間真剣に頭の中に埋もれている記憶の綿埃を懸命に探
しているようだった。やがて彼女はとても落ち着いた様子でこっちを向いてこ
う言い出した。
「あぁ、やっと全部思い出した。ええっとねぇ、例えば……?君?とか?あな
た?だとか?娘?とか?あんた?とか?てめえ?とか?おまえ?だとか?ガ
キ?とか?バカ?とか?クズ?だとか?ネェちゃん?だとか?女?とか?少
女野郎?だとか?気味悪い?だとかとか?胸無し人形?だとか?無口?だと
か?おい?とか?暗い?だとか?ノーパン?とか?キモい?だとか?キス魔
?だとか?ペチャパイ?とか?亡霊?だとか?カワイイ顔して恐ろしいこと
考えるお姫様?とか?ガリガリ?とか?アレもろくにできない奴?だとか?
ゴミ?とか?オンナのくせに口数の減らないボケ、くたばっちまえ?だとか?
理想の妹?とか…。
…大体そんなとこ? できる限り思い出してみたけれど。まだまだたくさん
いっぱあったような気がする。今はもうこれ以上は無理だとおもうけど…あっ、
そう言えば昔、私最初アイツらの言ったこと、どうしても忘れることができな
かった。あの頃は。懐かしい。しばらくして彼らが何処かに行ってしまった後、
どうしてか分からないけれど無意識のうちにずっと我慢していた胸の中の怒
りで激しく燃え上がる気持ちや心が空っぽになったような悲しみに耐えきれ
なくなって涙をいっぱい流してた……不思議。
?どうしてこういう感情を抱くと私は涙がこぼれちゃうんだろう? 分か
らない…?って。
でも今は全然平気。見知らぬ人に何言われようが大丈夫になっちゃった。な
んか慣れちゃった。もうへっちゃら! これも昔からたくさんヘンな人達に意
地悪ばっかり言われてきたおかげ? …今思うとおかしな話だ!