釘の靴
視線を上げていった。そこには女の子の顔があった。はっきりした大きな瞳。
地球の色をしていた。鼻筋が異様なほどスッキリしている。まるでジャンプス
キーの発射台みたいに。今度は少し顔を遠ざけて彼女を見てみた。同じ年くら
いかもしくは少々年下の女の子はかがみ込んで膝の上で頬杖をつき、目の前に
ある顔をじっと眺めているようだった。髪の色は同じで、長さは首の中間くら
いまであった。肌の色は闇に染まることなく白月のごとく顔の他のパーツ達を
見事に引き立たせていた。一言で簡潔に言えば美しかった。白いワンピースを
着た女の子は微笑んだ。それからとても悲しそうな顔をした。なんだか自分が
日末のおとぎ話の中にいるような気がした。僕が竹取の媼で、目の前の女の子
がかぐや姫。彼女は静寂の満ちる世界からやって来て、満月のように美しかっ
た。びっくりした。ただ山登りで友達とはぐれて遭難して.宿りする場所を探
していただけなのに。…変なの。けどかぐや姫は確かに存在していた。もしか
してこれもまた自熱が生み出した蜃気楼みたいなものの一種なのだろうか。
「…いや違う」
これは夢でも幻想でもない。現実だ。あの唇の感触は現実の感触だ。凍傷気
味の体と致命的な思考能力が何よりの証拠だ。
「…まるで当てにならない」
ぼんやりとした目つきでかぐや姫を見る。悲しい表情は竜宮の城壁にも描け
ない美しさにも匹敵していた。絵で描くことができないのならいっそのこと水
中カメラでぱちりと撮っちゃえばいいのに。
けどもし仮に今持っていたとしても、もちろんそんなことをする元気なんてな
かったけれども。女の子は相変わらず寂しそうな顔を浮かべていた。僕は力無
く笑う。
「…助けて…体の具合がとても悪くってさ…足は痛いし寒気もするし熱ある
し吐き気がする….と土と死の匂いが充満してるんだ、この森は…僕、今日学
校の友達と一緒にここの山に登りに来たんだけどさ…下山途中で足滑らしち
ゃって知らないところに転がり落ちちゃって…それで遭難しちゃったんだ。ダ
サいだろ? ハハハ…
ところで君…一人? お父さんかお母さんか誰か大人に暮らしているの?
そうなの? もしそうなのならちょっと急いで呼んで来てくれないかな…
体がボロボロで今にも死んじゃいそうなんだ、お願いだよ…違う? じゃあな
んでひとりでこんなところにいるの? …君も道に迷ったの? ねぇ…、ねぇ
ってば……」
依然として女の子は悲しげな表情を浮かべたままだった。疲労は限界を越え
ていた。喉に詰まった痰が障害物となった鈍く重い咳を何度かしたような気が
した。激しい.のせいで言葉は女の子の元へと届いていないのかもしれない。
闇に紛れて睡魔が大きな鎌を肩に掛けて女の子の背後から、ニヤニヤとした
顔つきで乾き切った紫色の唇を、舌に存分に含んだ臭そうな唾液で潤しながら
ゆっくり近づいて来るのが見える。睡魔はやがて真横で偉そうに仁王立ちをし、
無表情のままよく研ぎ澄まされた大鎌を狂いきった奇声を発して振り降ろそ
うとした。「…みなさん今度こそ末当におやすみなさい。」瞼のシャッターは
大鎌が空気を切り裂くスピードとほぼ等しい速さで閉まろうとしていた。……
ホントにおやすみ。そう心の中で呟いた。けれどもそう呟いたか呟かなかった
かの瞬間、突然、女の子は唇に自分の同じものを重ねた。…キス。女の子とキ
スとの最中、目の端っこで睡魔が大鎌を地面に落とし、頭を抱えて苦しみもが
きながら消えていくのを眺めていた。放り出された大鎌はいつになっても消え
ることはなかった。目を見開いてよく見てみるとそれはただの棒だった。しか
も拾ったあの頼りがいのないただの棒っこたせった。目を閉じようとした。女
の子は目を閉じる前から既に瞳を閉ざしていた。蓋をした。しばらくして再び
目を開けた。薄く目をつぶって姿勢に合わせて両手を目前の肩に添えて軽く前
屈みになり、顔を突き出して柔らかくて暖かい唇でキスをするかぐや姫はこの
世のものとは思えないほど美しく、そして光り輝いていた。しばらくずっとこ
のままの状態で過ごした。不思議と体中の疲労が抜けていくのを感じた。悪寒
は消え去りだるさも何処かへ飛んでいき代わりに聴力や感覚や思考能力が古
代インディアンのブーメランのようにするすると、この古巣の元へと無事に帰
ってきた。服に含んだ水分も蒸発し体の熱もすっかり引いていったんだけれど
も、唇だけはまだ熱を帯び感覚麻痺がしていた。でもそれはとても素晴らしい
ことだった。素晴らしきキス。かぐや姫とのキス。あるいは自分が白雪姫で彼
女が白馬の王子様のような気さえした。そして王子様が白雪姫の喉につっかえ
た毒リンゴを吸い出したのはいいのだけれど勢い余って今度は自分の喉に詰
まらせてそのまま死んでしまったという「しらけ姫」のもう一つのおちゃらけ
たギャグストーリーのように、女の子もまた口づけで体から一種の毒のような
ものを摘出し、故意か事故か全然分からないけれど、それを吐き出すことなく
飲み込んで、太陽がいなくなった世界にションボリするヒマワリみたいにへな
へなとその場に顔を伏せてしゃがみ込んでしまった。女の子が睡魔と同じよう
に消えてなくなってしまうんじゃないかと思ったりもしたけれど、やはり彼女
は幻覚なんかではなかった。かぐや姫は今もまだ確かに存在していた。
.はいつの間にかすっかり止んでいた。時計のライトボタンを押して久しぶ
りに時間を覗いてみた。二十時四十五分。
「…ふーん、全然眠たくないや。眠気はきれいさっぱりこの女の子に吸収され
てしまったみたいだし」
闇はますます深くなりつつあった。お腹がもの凄く空いていた。気温も先程
に比べて著しく低下してたのだろうけど、その変化に今の今まで全く気づくこ
とはなかった。吐く息には少しばかり色がつき始めていた。黒い画用紙に白い
液体をぽたぽたっ、と少しずつ垂らしているみたいに。女の子にそっと話しか
けた。
「君のキスにはなんだかとても素敵な魔力があるみたいだね。すごいや。あっ
という間に体調が良くなっちゃったよ。でも不思議だなぁ…どうしてだろ
う?」
彼女は石の人形みたいに硬くぴくりとも動かなかった。もちろん言葉に対す
る返事はなかった。
…無視。
起きあがってかさぶたのように服の表面にこびり付いている.をぱっぱと
払い、再びその場に体育座りをして女の子の肩を優しく揺すった。
「ねぇ、ねぇ、ねぇ、ねぇ、どうしたのさ? 具合でも悪くなったの? 僕の
体を元気にしてくれた代わりに今度は君が体調悪くしちゃったのかなぁ?
まさか風邪うつしちゃったのかもなぁ…」
「…そんなことない」女の子は胴体と膝との間にできる僅かな空間を頭と二の
腕で蓋をして完全に密封したまま、小さなくぐもった声でそっと呟いた。「…
違う」女の子はすん、すん、と少し鼻をすすった。
「じゃどうしてそんな体調悪そうにうずくまったりしてるの? さっきも聞
いたんだけど、君なんでこんな所に一人でいるの? 僕と同じようにみんなと