釘の靴
て、開くとすぐに閉じてしまうような瞼で瞬きを一度だけした。真っ白い靄み
たいな景色が見えるだけだった。今、くしゃみをしたみたいだけど、現在進行
形でくしゃみをしていたことに全然気がつかなかった。鼻水が鼻の穴から垂れ
てきて、それがだらんと開けた口の中の舌の元へとなだれ込み、ほんのちょっ
ぴり塩っぽい体液と、.と土と絶望の代わりにパンチの効いた死の予感のする
味が、かなりの時間が経過したあとにとっても不味く感じられたので、あぁ、
くしゃみしたんだな、と理解することができた。もう熱いとか、寒いとか、痛
いよとか、淋しいなとか、不安だとか、意識が朦朧とするんだよねとか、もう
すぐ眠っちゃいそうだとかなんてどうでもよくなってきていた。もう何も感じ
ない。これが死ぬということか、とも思ったりした。
すごく疲れた。意識が疲労の渦の先にある永眠の谷にゆっくりと、そして確
実に吸い込まれていくのをひしひしと感じた。冷たく柔らかい針の大群のよう
な.は相変わらず地上に降り注いでいるようだった。けどもう今そんなことは
関係なかった。土の温かみが濡れた頬にツンツンツン…と、悪戯好きな幼児の
ようにつつく。笑う。あったかい。ハハハ、眠いから眠ろう。おやすみなさい。
Good night.See you next time…zzz…ブルブルブル!!いけない!いや、や
っぱりこんなところで眠りたくない。家に帰ってこんなところよりもあったか
いお風呂に入って、母さんのおいしいご飯を食べて、父さんやお姉ちゃん達と
冗談を言い合ったり、家族でまた楽しい会話を体外の時間の感覚が停止してし
まうくらいエンジョイしたい。友達にも会いたい。山登りをした友達以外の友
達にももちろん会いたい。またみんなと一緒に何かして遊びたい。もう山登り
はこりごりだけど。晴れの日にはクラスのみんなと野球とかサッカーとかした
り、こんな.の日なんかには誰かの家に集まってテレビゲームをやったり、学
校ではあの太っちょ先生のお腹を使って遊び禁止になったポコペンなんかも
またやりたい。
そのポコペンという遊びは普通のルールとちょっと違っていて、オニのひと
は常に太っちょ先生の傍にくっついていなくちゃいけなくてもちろん先生に
嫌な顔をされるし、オニじゃないひとはタッチする場所が職員室だったりトイ
レの中だったり体育館だったり訪れたこともない上級生のクラスのあるフロ
アーだったりしてけっこう度胸のいるもので、しかも太っちょ先生の行動や気
分によってちょくちょく移動しちゃうもんだから、休み時間内にこのゲームを
終わらすのは実に至難の業だった。…以前先生が校長室に入っていくのをこっ
そり見ていて、オニがその入り口の前でやって来るのを見張っていた。そこで
友達二人がオニにのし掛かって捕まえているスキに、校長室に忍び込んで太っ
ちょ先生のお腹にタッチするという計画を考えてそれを実行してみたんだけ
ど、校長室の入り口にいたのはなんと、担任の先生じゃなくて校長先生一人だ
けだった。校長先生は壁に掛けていた立派な賞状を布と専用のクリーナーで綺
麗に磨いている最中で、オニはドアを開けたあと邪魔されている友達の罠から
抜け出して後ろから飛びかかってきた。そしてオニと二人で校長先生だとは知
らずにお腹に勢いよく頭からタックルをかましてしまったのだ(校長先生も太
っちょ先生に.らずお腹がぽっくりとお山の狸のように出ていた)二人とも見
分けがつかないくらい体型がもの凄く似ていたもんだから、一瞬の出来事では
全然判断がつかなかった。自分とオニと校長先生は床に思いっ切り叩きつけら
れて賞状の入った額縁のガラスはカーペットの上に粉々に砕け散った。その光
景を見ていた他の二人はとっさに自分達だけでも逃げのびようとしたみたい
だけど、この惨劇の悲鳴を何処かで聞きつけた何人かの怖そうな先生達が彼ら
をしっかりととっ捕まえて、校長室の奥の部屋で何やら仕事をしていた担任の
先生は、たぷん、たぷん、たぷん…と、お腹を上下にリズミカルに揺らしなが
ら全速力で事故現場にやって来て、もの凄い形相で睨みつけ、そして叱りつけ
た。次の体育の時間、他のクラスのみんなは外で思いっきり大好きなスポーツ
の一つであるドッヂボールを楽しくやっていたんだけど、こってり絞られた三
人は今は使われていなくて壊れた机や椅子が大量に山積みされている学校の
中で一番ボロくって、隅っこのほうにある廃教室で罰として帰りのホームルー
ムの時間までずっと正座させられた。一人だけ特別に許された奴がいた。彼は
少し淋しそうな表情をしていた。
掃除の時間でもある下校時刻になっても帰してもらえずに、廃教室から出ら
れた代わりに今度は険悪な空気の流れる職員室に連れて行かれて、当然ながら
太っちょ先生はそれぞれの家に電話をかけ、今日学校でこれこれああいうこと
がありました、と他の先生に叱られている前で皮肉っぽい口調でねちねちと伝
え、それから校長先生のところへ下校する前に謝りに行って来いと言った。も
ちろん校長先生に素直に謝罪した。
家に帰ってからもまたさんざん両親や姉ちゃんに叱られた。翌日の全校集会
でも三人は叱られ、同時にみんなの笑い者と人気者になった。例の彼はただ一
人無表情だった。そんな事件以降、学校でその「改造ポコペン」をやることは
全面的に禁止となり、しばらくの間、休み時間を徹底的に感じの悪い先生達の
冷酷な視線と監視を浴びせられてビクビクしなければならなくなってしまっ
た。でもそれらの出来事はかけがえのない良い宝物となった。
現にこうして今、とっても危ない状態に立たされているのだけれど、こうい
う世間ではあまり一流とは言えない思い出が現在一流のエキスとなってかろ
うじて生き延ばしているのだから。もちろん他の思い出達も、例えば家族との
楽しかった思い出なんかもその源になっているのは間違いないんだけど、やっ
ぱりあの思い出が死の淵から奮い立たせる一番のエネルギーでもあり滋養強
壮剤ともなった。「…よし、行くぞ…」
と、鉄アレのように重たい瞼を全開の場合の五分の一ほど開き、小刻みに痙
攣を起こしている両腕と右足を上手くつかって産卵を終えて精根尽き果てた
後の雌がえるのように、.完成の平泳ぎのまがいものを駆使しながら少しずつ
前へ、前へと動き始めた。あらゆる感覚と思考は既にほとんど機能していなか
ったのだけれど、まだ.が降り続いていることだけはなぜか分かっていた。そ
れは完璧な確信ではなさそうだった。ただただ前に突き進んでいた。誰かに一
方的に引きずられているような気もした。ただひたすら邁進した。
二
どれくらい.は降り注ぎ、前進したのだろう、ふと額に何かヒヤリとするも
のを感じた。それは冷たくて柔らかい感触だった。木の幹でも枯れ葉でも.で
も夜の闇でも土でもなさそうだった。顔を上げ、目を力の限り開いてみた。唇
が見えた。それも人の唇が。今まで一度も見たことのないほど綺麗で薄い唇を。