釘の靴
の少し内に丸まった人差し指が、ある闇の奥深くの方角に突き出ているのがち
らっと映った。
「…もしやこれは……。」
その人差し指が見つめる先にじっと目を凝らした。どこまでも均等な色合い
の闇が際限なく広がり続いているだけだった。しかしこれに一か八か賭けてみ
るしかもう策はなかった。ヘッドライトを装着して光を灯すと、脂汗と血と土
と昏睡と微かな希望でびしょびしょに濡れた女の子のワンピースの上を這い
蹲っている艶のある黒い甲羅を持った虫を掌で数匹叩き落として彼女を抱き
起こし、試行錯誤を繰り返してようやくなんとか中腰のまま背中に背負うこと
ができた。頭を下げて腕時計に照明と視線を注いだ。
…午前一時三分……。
血の気がまるで砂浜に打ち寄せる小波のように引いては戻っていった。
…急がないと……。
早くこの山から脱出しないと日が明けてしまう。そう焦ると咄嗟に少しだけ
前屈み気味になり、腹筋と両足に力を入れ、体を押し倒すような具合で立ち上
がろうとする無意識な自分の影が視界の.にすっぽりと収まっているのが見
えた。それでもなんとか時間をかけてゆっくりと上体を起こし、かぐや姫を背
中から落とすことなくがに股で地面に立った。たったこれだけの一連の動作で
すっかり全身に軽い汗をかいてしまい、思わずでっかいくしゃみを数回した。
しかしあまり寒気というものを感じることはなかった。麻酔の範囲を超えてい
るはずなのに。吐く息の白さが更に濃さを増していた。彼女にもまだ息はあっ
た。まだ生きているのだ。意識が定かでない危機的生命の.答。それを彼女は
右耳で一定のインターバルを置きながら辛うじて受信している。だがその呼吸
数は自分のものに比べて圧倒的に勝っていた。
後ろを振り返り、男性用スーツの切れ端にがっちりとくるまれた女の子の両
足を見た。ちょうど切断部分にあたる踝付近のところの生地色が他の部分のそ
れよりも格段に深みを兼ね備えていた。そして地表に僅かながらも二つの血溜
まりができていた。彼女を再びきちんと担ぎ直し、示された方角に向かって一
歩一歩確実に進み始めた。両手が完全に塞がっているので、垂れ下がった木の
枝やわけの分からない植物のつるや身長の倍以上ある茂み(このくらいジャン
ボサイズにあると果たして茂みというジャンルに分類されるのか否かは別と
しての話だが…)などの障害物はもろに顔面に直撃し、頬からすぅーっと生暖
かくて鉄の味がする液体の筋が通ることがしばしばあった。歩くスペースもな
いほどに密集していてめちゃくちゃな方向に乱立した木々がいつまでもいつ
までも行く手を阻んだ。まさに樹海と呼ぶにふさわしいスケールを地図もコン
パスもガイドさんも無しに、ただひたすら歩き続けた。
夜はこれでもかというぐらいに闇を絶えず吐き出し、そしてそれがヘッドラ
イトが照らし出す朧気な行き先を容赦なく蝕んだ。ある時ふいにとてつもない
疲れの重量を体の内側から感じた。一瞬、全身の力が完全に抜け落ち、頭一個
分程体が地面に落下しかけ、それを制止しようとしてそのさらに内側の反射神
経が落下した分だけ浮上させた。突然、おでこの辺りで何かが砕け散るような
聞き覚えのある案外気持ちの良い音がした。それは窓ガラスに固形物が当たっ
て粉々に割れるあの音に酷似していた。それはやはりガラスが木の枝に衝突し
て粉々に破損する音だった。爽快感と共にヘッドライトの光は視界から姿をく
らまし、同時に女の子を背中から乱暴に落として地面に頭と尻を激しく打ちつ
けその場に倒れた。強烈な脳震盪と尾てい骨の痛み。気を失った。しばらくし
て視界が突然ぱっ、と明るくなった。
夢を見ていた。目の前にはゼンマイ式のストップウオッチぐらいの大きさの
時計があった。時刻は十二時ぴったりだった。秒針はぴくりとも動かなかった。
ぴかぴかに輝く青白い表面のガラスに触れてみた。やっぱり見た目通りつるつ
るしていてなんだか気持ちが良かった。そしてそれを優しく撫でながらそっと
目をつぶった。限りない時間は誰にでも平等に与えられ、そして使い切ってし
まうと無惨にも捨てていく。その営みは人間が行うものではない。人間が考え
た概念そのものが自らを苦しめているのだ。そういうことに気づいている人間
的な生活を送っている人間は案外少ないのかもしれない。自分だって今の今ま
で全く気づいていなかったのだから。ふとそんな考えが頭の両端で勝手に渦巻
いた。まだ子供の脳味噌にとって、.発達な思考の領域に到達できたのは外部
からの使者である「焦り」という名のバーテンダーが脳を上手い具合にシェイ
クさせてくれたからだろう。しかしだからといってそのことに関して全く感謝
の念というものを抱くことはなかった。今は時間がないのだ。ただ.に「ツキ」
がないというのも確かなのだが。
「…誰か僕に時間を分けてくれ。」
目を開いた。もうそこに時計はなかった。代わりに相変わらず瞼の裏の空間
に瓜二つの世界がそこにはあった。現実世界の闇のことである。それは空から
剥がれ落ちてきた古い夜の破片が風に煽られて細かい薄い灰みたいになり、落
下中に地上を黒々と染めているような錯覚に陥る、なにか童話やファンタジー
物語の背景描写のような闇だった。しかし何度も言うがそれは現実的で、末当
の、末物の闇だった。
辺りにはいつの間にか.が降っていて、僕は全身ずぶ濡れになっていた。小
さな水滴が大量に付着した腕時計は午前二時十三分を表示していた。熱も寒気
も絶望もタイムリミットが近づくのに従って予想通り体と心を徐々に追い詰
めていた。腕時計の淡いマスカット色の光は砕け散って頭から抜け落ち、ぬか
るんだ.状の地面に体の半分ほどめり込ませたヘッドライトを淋しく照らし
ていた。そして五秒も経たないうちに光もヘッドライトも冷え切ったマントの
ような闇にすっぽりと隠されてしまった。
瞼を三分の一ほど下げ、額から流れてくる.水で乾いた唇をがくがくと体を
震わせながら湿らせた。もう、ここから一歩も動けるとは思えなかった。体力
と希望が底をついていた。太股や二の腕辺りの皮膚の感覚も完全に麻痺してい
て何も感じなかった。ありったけの声量で女の子に呼びかけた。返事はなかっ
た。.が森を静かに潤し続ける音しか聞こえなかった。命の抜け殻やまだ辛う
じて息のある草木の香りは死なんかよりももっと尊いものの存在に近い匂い
がした。隣の生暖かい気配にようやく気づいた。彼女が真っ青な皮膚と.まみ
れになって笑っていた。思わず泣きそうになった。
「……ごめん…力不足だったよ…。」
と胸が張り裂けそうなのを我慢して呟くと、今にも死に絶えそうな美しいか
ぐや姫は.水と額から滲み出る汗と血と.水と一瞬だけ心を和ませた涙を含
んだ液体を大きな瞳に一つずつ溜め、にっこりとしながら首をゆっくり横に振
り、瞳の滴を地面に捧げた。彼女の両足に巻かれたTシャツやスーツは痛々し
いほどに真っ赤に染まり、たっぷりと.水を含んでほとんど解けかけていた。