釘の靴
彼女は黙って大木の根末に立ちすくんでいた。周りはひっそりと静まり返り、
月と星々に照らされて妙に明るくなっていた。彼女は光のヴェールに身を包ん
でいた。やっぱり美しかった。あの息を飲むような足元でさえ、何の目の害に
もならなかった。むしろ保養になったぐらいだった。すべてのあらゆる要素が
彼女の美貌の糧となっているようだった。その光景はこの黒闇の中では眩し過
ぎた。しかし何の感情も表に出すことなく無表情のまま右手に短刀を、左手に
切り込みを入れて包帯のように細長く繋いだ何枚かのTシャツをぎゅっ、と力
強く握りしめながら女の子の前に立った。彼女は笑みを浮かべ、唇にもう効き
目はないのであろうキスをしてくれた。だが効果はあったようだった。決心さ
せてくれたのだった。かぐや姫はにっこりと微笑んで頷いた。無表情さを脱い
でにっこり笑って頷き、再び顔の筋肉をきゅっ、と引き締めてその場にしゃが
み込んだ。そして短刀の刃先を左足の外側の踝から二センチ上あたりに密着さ
せて、反対側からTシャツを当てながら押さえると、頬にぽたりと何かが落ち
てきた。それは彼女の複雑な思いを秘めた水滴だった。顔を上げた。女の子は
微笑みながら泣いていた。溢れるほどの涙が込み上げてきた。でもぐっと堪え
て我慢した。彼女はまたゆっくりと頷いた。
…今だ。
目をつぶって頭を勢いよく揺すって大粒の涙を振り落とし、全神経をかぐや
姫の足元一点に集中させると、
?うぉぁぁぁぁぁぁー!!!?
と自分の鼓膜が破裂しそうになるほどの音量で気合いを出して、この間の図
工の野外授業で大きな丸太をのこぎりで全体重をかけて真っ二つに割ったと
きのように短刀を全身全霊で彼女の左足の内部に食い込ませ、もの凄い摩擦を
起こしてブチュブチュゴリゴリリリ……と、一度鼓膜に貼り付くと死ぬまで耳
鳴りとして残りそうな気持ちの悪い音を立てて皮膚と肉と神経と血管を切断
し始めた。そして次の瞬間には同時に悲鳴に似た絶叫と大量の血が噴き出し、
視界はあっという間に血塗れになった。彼女の足から左手を離してスーツで顔
の返り血をきれいに拭き取り、また手を元のポジションに戻した後、今度は中
心部で彼女を支えているか細い真っ赤な骨を真っ白な粉を巻き上げながら時
間をかけて切断し、最後に辛うじて末体と繋がっている毛細血管と皮膚を一刀
両断した。かぐや姫は言い表すことのできないような苦悶の表情を浮かべて背
後の大木の幹に手をついてもたれかかり、信号待ちのダンプカーのように全身
をがくがく震わせ、両手で頭髪を掻き回したり引っ張ったりして、また悲痛な
叫び声を上げた。その光景に思わず我を忘れてパニックになり、吐き気を催し、
胃酸を女の子の足元にぶちまけた。絶えず彼女の狂ったような叫び声が夜の空
にこだまする。
また無心になって集中力を高め、涙が止めどもなく流れては新鮮な血の染み
込んだ死骸の山に溶け込んでいくのを見送ると、再度自分に喝を入れて、恐怖
と混乱と不安とこの場から逃げ出したい気持ちをかき消し、どろどろに血が付
着した短刀を地面に突き刺して、ワンピースの裾を捲り上げ、張りのない縄を
錆び付いた包丁で適当な長さに分断し、彼女の太股にきつく縛りつけて出血を
最小限に食い止めて、原型のままのスーツを携帯用ナイフで引き裂いて左足の
傷口を包み込み、包帯状にしたTシャツをその上からぐるぐるに巻きつけ終わ
ると、短刀にこびり付いた血と骨の粉と筋肉繊維を拭い、間髪入れずに右足の
切断に取りかかった。先程とは逆に内側から攻めて再び返り血を全身にたっぷ
り浴びつつ刃を中心まで到達させると、今度はもっと慎重に骨を削り始めた。
骨の表面に短刀の鋭い刃が少しでも触れる度に彼女は悲鳴を上げながらきつ
つきが巣を作るために嘴で穴を開けるみたいに頭を木の幹にがんがんと激し
く打ちつけ、顔に汗と涙と血を降らせたが、そんなことには全く動じないで
黙々と作業を続けた。しかし鋼鉄の刃が骨のど真ん中まで進むと突然、短刀の
進行方向に向かってバキボキメリメリバリバリ……と、まるで樹木が伐採され
て切り倒されるときのような音をゆっくりと立てながら女の子の体は勢いよ
くバランスを崩した。
咄嗟にその方向へ身を投げ、彼女のクッション代わりになった瞬間、腹部に
強烈な激痛が走るのを感じた。目を見開き、かぐや姫の体からのろのろと這い
出て仰向けになり、下を向いた。ウィンドブレーカーを貫通して、お腹に短刀
が突き刺さっていた。目の前が一瞬チカチカしたかと思うと、いきなり吐血し
た。顎や首が真紅に染まった。その様子をうっすら瞳を開けて見ていた血塗れ
顔の女の子は、「…あ、あ、あ…お、お腹…に、た、短…刀が…………わ、私
を助…けようと…し…………ご、ごめ…ん…なさ………………。」と途切れ途
切れに言葉の塊を声を振り絞って大気中に押し出し、そして最後に話し手の腹
部に震える手を力無く添え、気を失った。
一瞬苦痛をも忘れて彼女に向かって叫んだ。しかし返事はなかった。まだ手
当てしていない右足からは何の遠慮もなく、重力の赴くままにどくどくと血が
溢れ出して地表に溶け込んでいき、何処からか足音を立てずにやって来たあの
害虫達が切断された両足によじ登って大勢群がり、.だに血が流れ出ている内
部の肉片や皮膚にかぶりついて、
?うーん、やっぱり新鮮なやつは違う。デリシャスだね!?
とでも言うようにムシャムシャバリバリ…とポテトチップを囓るような音
を立てて旨そうにそれらを食い荒らしていた。その光景はまるで地獄絵巻でも
見ているようだった。混乱と絶望の渦巻く中でその光景は体が燃え尽きるほど
の熱さを伴って鮮烈に輝いていた。しかしそれはただ.に状態異常が引き起こ
した膨張されたイメージなどではなかった。これは末当の「現実」であり「真
実」だった。 …少なくともこの現在生きている世界に限っては、の話だが。
かぐや姫が出血多量で気絶し、昆虫達が分断された彼女の両足を頬張り、腹
部に刃物が突き刺さっているのだ。他に解釈のしようがなかった。これは紛れ
もない事実なのだ。
痛みを堪えて起きあがって涙と鼻水と垂れ流し、嗚咽を繰り返しながら腹か
らべとべとに血の付着した短刀を引き抜き、裂け目から上着を破って傷口の具
合を確かめてみた。確かに痛いことには変わりないのだが、幸い出血のほうは
少なかったので患部にTシャツの包帯を軽く巻くとすぐに女の子の右足に先
程の左足と同様の手当を施した。彼女のキスはもしやその行為が行われる以前
の苦痛までしか麻酔としてカバーできないのではないかとふと思った。だから
今までお腹に突き刺さっていた短刀の痛みはこの.だに残っている彼女のキ
スの効き目では賄いきれないのかもしれない。そんなことを考えている間にも
彼女の意識は一向に戻らなかった。呼吸はまだあったが、ほっぺたや肩を叩い
て懸命に呼びかけても全く反.がなかった。もうなすすべがないと首を振って
溜め息をつき空を仰ごうと顔を上げたとき、ふいに視界の端っこに彼女の右手