釘の靴
てしまうみたいだから私は何度も繰り返して抜け道を説明してあげたんだけ
れどもね……でもそれは全員大人だったから私のガイド無しで生還すること
ができたのであって、まだ子供であるあなたにはちょっと無謀過ぎるんじゃな
いかと思う。私もまだ子供だけれども。
それに体力と抵抗力のある彼らは私の一回目のキスの効き目が消えない内
に見事山を降りたの。
…?たった一回のキスだけで。?
よ? つまりもう既に二回も私のキスを受けていてなおかつ、まだほんの子
供であるあなたが麻酔が切れる前までに自力で下山することは誰がどう考え
たって無理じゃない! だから道順に詳しい私が一緒についていってあなた
を助けようと思っているの……だってこのまま何もせずにここに.座ってた
だ黙って残された時間を無駄にしていたって結果は同じじゃない! もうこ
れしかあなたをここから救い出す方法は残されていないのよ! …だからお
願い、私の足元の釘を抜いてほしいの……それに…。」女の子はそこまで喋る
と急に瞼を閉じ、そして口ごもりだした。
「…それに?」彼女の端正な鼻筋のラインをじっと眺めながら尋ねた。貴重な
時の砂時計がさらさらさら…と微かな音を立てて過去の底に舞い落ち、そして
ただ受け身がちに飲み込まれていった。湿った闇の流れを感じた。やがて彼女
はこう呟いた。
「…私をここから連れだしてほしい…。」そう言い終わるとかぐや姫は大量の
涙を浮かべて身を屈め、そのまま倒れ込んでその美しい顔を話し手の胸の中に
埋めた。ウィンドブレーカーには何末もの透明な縦縞ができ、そこに付着して
いた.の塊を飲み込んで、一同に一番下のチャックの溝やしわくちゃの谷間を
飛び越えて地面にぽたっ、ぽたっ、という音らしい音もなく静かに落ちていっ
た。
女の子を抱きしめ、そして泣いた。彼女と同じように号泣した。
…彼女と一緒にこの山から脱出したい……。
末当に末気でそう思った。けど自分の力では彼女をどうすることもできない
ような気がした。この無数の釘を何の出血もなく全てとはいかないにしろ、最
低でも両足を地面から引き剥がすことができるくらいまで抜ききることなど、
大の大人でも成し遂げることができなかったのに、このちっぽけな子供には到
底不可能な大事業のように思えた。…やっぱり無理だ。無理に決まってる。こ
こには釘抜きも、救急箱も、出血止めの注射器も、医者も、ましてや他に協力
者さえ存在しないんだ。どうやってまだ非力な子供である一人の力で彼女をこ
こから救い出すことができるというのだ?
…無謀だ。
…あまりにも無謀で、非現実的過ぎる。
しかし黙って彼女をこのままここに放って行くことだけは絶対にできなか
った。そんなことは絶対ありえないのだけれど、もし仮にそうしたとしても今
の状況と大して変わり映えがないように思えた。なぜならその行為自体、死を
意味していたのだから。どちらを選んだとしても確実に死がやって来るのだ。
無力だよ。
そうかな。
失望の淵に立たされていた。涙が止めどもなく溢れてきては零れ、そしてそ
れは次々と女の子の頭の中に何の抵抗もなく染み込んでいった。空を眺めた。
いつの間にか雲の隙間から昨夜と変わらずぼんやりと満月が顔を出していた。
月は着々と高度を上げ、同時に時は現在に無惨にも食い殺されて過去という名
の.となった。彼女は泣き続けていた。泣いて泣いて泣いて、泣き続けていた。
無層のぶ厚い涙の壁を通して、腕時計に目をやった。時刻は二十三時六分ちょ
うどを示していた。かぐや姫の両足に打ち込まれた無数の釘は鈍く不気味な月
の光を自らの体内に取り込んでいた。思わず吐き気を催した。
「……お願い、私をここから救い出して…お願い…。」かぐや姫は胸の中でく
ぐもった呻き声を発し、懇願した。彼女の声がウィンドブレーカーを微妙にビ
ブラートさせているのを肌で嫌というほど感じ取り、目の前が真っ暗になって
放心し切った口調で力無く答えた。
「…どうして君は急にそんなことを言い出したの?」女の子の頭を優しく撫で、
もう一度ゆっくり尋ねた。「…どうして?」
彼女は間を空けて言った。「……あなたと離れたくなかったからよ…これか
らもずっと話がしたかったからよ…ずっとずっとずっと…ずっと一緒にいた
かったからよ……そして…。」
「…そして?」ぐすん、と勢いよく鼻をすすった。
「…そしてこの山を降りて、どうして私がこんなところに両足に釘を打たれて
独りぼっちでただじっと立っていなければならなかったのかその理由をあな
たに頼らずに自分で探し出したいからよ……ただその二つだけのことなのよ
……。」
「理由…。」再び言いようのない涙が込み上げ、胸をじんわりと暖かくさせ、
また鼻を何度かすすり、むせた。「…でも、でも、でもさぁ…どうやって僕は
君をここから救い出すことができるというのさ? …君自身、前にその釘を抜
いてここから脱出することは不可能だって言い切っていたじゃない? …僕
が一緒にここから脱出しようって誘ったときだって…その両足を見せてくれ
たときだってさぁ……色々考えてみたんだけどやっぱり僕には無理だよ…そ
して同じように命あるうちにこの山を脱出する望みも消えたんだ…もう?万
事休す?だよ…ハハハハハ……。」
そう力無く笑うと、彼女の頭上にほっぺたをぺたりとくっつけ、そしてさっ
きにも増して激しく泣き喚いた。体中の水分が涙に転換しているのではないか
と思うぐらい、熱帯地方のスコールのように鋭い涙の粒が女の子の頭皮を激し
く叩き続けていた。
やがて彼女は顔を上げて呟いた。
「…私の両足を切断して。」
それが最終的な決断だった。
五
死骸の山から古びた登山用のリュックサックを全てほじくり出し、中から携
帯用の折り畳み式ナイフや、掴むところがゴム製でできていて長さが十センチ
以上ある刃の分厚い短刀、アウトドアに適したコンパクトサイズの錆びた包丁
と、さらに何枚かの虫に喰われたTシャツとスーツ、.まみれのヘッドライト
に、水分を大量に含んでふにゃふにゃに萎びたロープを取り出した。消毒液は
残念ながら何処にも見当たらなかった。時計を見た。日付が変わっていた。拳
に視界が入った。鳥肌が立っていた。そういえば先程からなんだか体が重くな
ったような気がした。手足もやはりやけに冷たくなっていた。肩の屋根に微か
な寒気を感じる。しかし今はそんなことにいちいち気を紛らわせられている場
合ではなかった。
身震いをしながらTシャツで短刀の刃の汚れを丁寧に拭き取り、両面とも月
の光で炙った。
…熱消毒。
気休め程度に。
このぐらいのことしかできなかった。ここには.水さえ存在しないのだから。
さすがに胃液や嘔吐物はまずいだろう。でもそれらもすっかり暴食なる地面に
吸い込まれていた。