釘の靴
きなり何か血の通った暖かいものが唇にふわっと密着するのを感じた。しばら
くそのままの状態が続いたあと、どうしてかは分からないがカッ、と待ってま
したといわんばかりに目を見開いて、回復した視力で彼女の瞳を見つめていた。
「これは…。」
そう呟いている間にも体中の熱発がみるみる落ち着きを取り戻して気分が
良くなってきて、体力の蓄えも増加し、左足の痛みもじんわりと薄れていった。
女の子はゆっくりと唇をそっと放し、相手の顔を両手で包み込むと微かに小さ
な笑みを浮かべた。起きあがって彼女の正面に移ってあぐらをかいた。
「良かった…。」
かぐや姫は潤んだ瞳で見つめてほっと溜め息をついた。「…さっきはつまら
ない話で脅かしてしまってごめんなさい。でもさっき言ったことはホントに起
こった出来事なの。私のキスの秘密のことを今まで詳しく話さなかったのはあ
なたをもうこれ以上混乱させたくなかったからなの…それに今日の昼頃まで
には必ず誰かがあなたを助けに来てくれるものばかりだと確信していたもの
だから……。」
彼女の表情が一瞬のうちに寂しさと悲しみと失望と風情と艶やかさを帯び
た。「…私のキスは人を癒すことができるのだけれど、なぜか分からないけれ
ど回数を重ねる度に効果が極端に薄れていくのよ。そして麻酔の効果も大幅に
減少されてしまうの。これはこれまでにこの山に迷い込んで私の元へやって来
た人間達を対象にした膨大なる…ある意味では?推考と実証?の結果に基づ
いて言うことなんだけどもね…。
…だいたい平均して二回くらいキスをしてしまったらもう、それ以降は何度
キスをしてあげてもその人間の傷や体の具合を治すことができないのよ。だか
ら私はさっきのキスであなたには既に二回キスをしてしまったから、もうこれ
以降あなたの苦痛を和らげることは不可能……そこのところをよく理解して
もらいたいの。」
「い、いいや、こちらこそまた命拾いしてもらってホントに感謝してるよ。あ
りがとう……でも、どうしてにわか.が降ったことを僕に教えてくれなかった
のさ? すぐに起こしてくれたらせっかく一生懸命つくったのろしを台無し
にしなくて済んだのに…。」
そうしょんぼりしてぼやくと、女の子は右手の人差し指をきめ細やかな頬に
ぴた、っとくっつけて、「だって?にわか.?だったからあっという間に通り
過ぎていっちゃったんだもの。あなたに伝える暇なんてこれっぽっちもなかっ
たの。」と、コロッと表情と態度を変えて素っ気なく言った。
「…あぁ、それもそうだよね、まさしく君の言う通りだよ、アハハハハ…。」
その言葉を聞いてますます落ち込んでしまった。
……ふぅ…。
気を取り直して質問を続けることにした。
「…ところでさっき君の言っていた?理解してほしい?っていうのは一体ど
ういう意味なの?」いつになくキラキラに映るかぐや姫の美しさに溢れた顔立
ちに思わず口づけしたくなってしまった。でもしっかりと思い止まった。今は
そんな雑念に惑わされている暇などこれっぽっちもないのだから。今するべき
任務は彼女の返事を促し、そして待つのみだ。
「?もう頼れるものは何もない?っていう意味。」女の子は簡潔に答えた。
「つまりこういうこと? …もうこんな夜遅くなっちゃったもんだから、唯一
の頼みの綱である救助隊は既に捜索を一旦中断してしまい、明日の朝早くから
再開しようと考えているのかもしれないけれど、君の二回目のキスによって辛
うじて生き延びた僕の命はその時間帯までにはもたない……そう言いたいん
でしょ? そうなんでしょ?」自分で話続けていくうちにだんだんテンション
が急降下で落ち込んでいくのをひしひしと感じた。
「…だいたいそんなところかな。」彼女は自分の目から一時も視線を離さずに
真面目な顔をしてそれからきっぱりとこう言った。「もうあなたには時間がな
いの。今から麻酔がもったとしてもあと六、七時間ってところ。私の豊富な知
識と経験によれば。もうこうなったらあなた、自力で山を降りるしかない。」
「えぇぇぇぇぇぇっ!!!」目玉はもぐら叩きゲームの標的みたいに勢いよく
飛び出してしまった。急いで腕時計のライトボタンを再び押して時刻を見た。
…二十一時三十七分。ごくりと音を立てて唾を飲んだ。…あと六、七時間程
度しか麻酔の効き目が持たないのならば多めに見積もったとしても明日の午
前四時半がタイムリミットだ。
「…そ、そんな…それはあまりにもムチャな話だよ……だ、だって僕、ここが
何処かさえまるっきり分からないんだよ。昨夜どうやって君のところにやって
来たのかさえ覚えていないんだ…ただ前へ、前へと…いや、違うなぁ…、あち
こち休憩所を探し回っているうちに方向感覚が狂っちゃって…あれれ、あの時
はすっごく熱があってなんだか頭がぼぉーっとしてたからなぁ…よく思い出
せない……と、とにかく、僕一人で麻酔が切れる前にこの山から脱出するのは
どう考えたって不可能な話だよ……そんなこと無理に決まってるじゃん…。」
がく、っと同時に肩と頭を落としてしまった。そしてしばらくの間、誰一人と
して喋らなかった。
時は無常にも過ぎていった。頻繁にライトをつけて時刻を眺めては溜め息を
つき、眺めては溜め息をつき…を繰り返して絶えずおろおろオロオロとしてい
た。
…どうしよう、もう時間がないよ、どうしたらいいんだろう?……。
「……両足の釘を抜いてもらえない? …私が出口まで案内するから…。」突
然、辺りに静寂さ漂う沈黙の群の眠りを一発でバッチリ覚ましてしまうような
破壊的な発言が、この森を占領している闇の一部をうわぁんうわぁんうわぁん
うわぁん……と激しく波立たせた。
「……何だって?」びっくりして彼女を見つめた。
「…確かに。」かぐや姫はそこで一旦立ち上がって背伸びと深呼吸と咳払いを
した。その場に立ち上がった。そして彼女はこう言った。「…あなた一人の力
ではこの山を降りるのは困難なことなのかもしれない。けど、私が一緒なら麻
酔が切れるまでには無事にこの山を降りられるような気がする…。
…今まで黙っていたんだけれど以前、かつてこの山で遭難した人が私のとこ
ろに、登山口からここまでの秘密の道順を発見したことをわざわざ教えに来て
くれたことがあったのよ。その時はどうせ私はこの森から出ることなんてでき
やしないのだからこんな話まるで意味のない話、って適当に聞き流していたん
だけれど、その後私の元にやって来てごく稀に私のことを末当に理解してくれ
るあなたのような人間にだけ、その秘密の抜け道をこっそり教えてあげていた
の。そうした彼らのほとんどは無事に脱出することができたみたいよ……確認
は取れないけれど。
彼らの死の匂いをこの森の中で嗅ぐことはなかったからおそらくそうよ。中
にはあの時は末当にありがとうございました、って再び遭難したお爺さんがお
礼を言いに来たこともあった。尋ねて来る毎にその人、ここまでの道順を忘れ