釘の靴
おやすみなさい…。
とそっと胸を撫で下ろして再び横になって眠ろうとしたちょうどその時、突
然何の前触れもなく視界に乱れが生じ、何か激しい重圧が体を均一な力で押し
潰そうとして思わずふらっ、と地面に倒れ込んでしまった。自分でも何が起こ
ったのかさっぱりわけが分からなかった。だが確かに地面に倒れていた。土の
匂いを嗅ぐことすらできなかった。鼻水が鼻孔を塞いでいたのだった。腹から
ならまだともかく、喉から声を出すことさえ困難だった。体が異様にだるかっ
た。おでこに掌を当ててみた。皮膚が溶けてしまいそうなくらいものすごく熱
かった。猛烈に寒気と吐き気もする。 虚ろな目を見開いて唾液をだらだらと
垂らし、同時に何十末の猟銃の弾丸と竹槍で串刺しにされて今にも絶命しそう
な猪の子供のように、体をピクピク、ピクピクと絶えずいわせて天国と地獄と
過去と.来の区別さえつかなくなった脳の狂乱を沈めるために間髪入れず唸
り声を上げた。でももちろん効果はなかった。その代わりとして回復の兆候が
全く見えない呼吸困難を呼び覚まし、昨日の左足の痛みがいつの間にかカムバ
ックした。前回よりも更にグレードアップして。
コントロール不能の影響がまだ確認されていない心の片隅で、一体何がどう
なってしまったのか時間をかけて自問自答した。夢にしてはあまりにも現実的
過ぎる苦痛だった。これは現実の世界での出来事だと今更になって理解した。
捜索隊はどうなってしまったのだろう?
彼らは光の反射やのろしなど、原始的な方法ではあるが最良の手段を使って、
ちゃんと互いの現在地を確認し合ったはずだったのに…。
なのにどうして……。
頭痛で頭蓋骨が粉々になってしまうのではないかと思うくらい、それを構成
する細胞達がみしみしと互いにひしめき合っていた。左足も同様だった。全身
の神経が棘の鞭のように肉体を引っぱたき、ボンレスハムの紐みたいに窮屈に
縛り上げていた。
意識が朦朧としながらもそれらに対する悲鳴を上げた。何度も何度も数え切
れないくらい叫んだ。でも苦痛は増すばかりだった。腹すらもの凄く痛み出し
た。昨夜から何も食べていなかったことをこれまですっかり忘れていたという
のに、今更になって突然空腹感が襲ってきたというのだ。呼吸のリズムは完全
に自身を喪失し、子供を失った母猪のような荒っぽい息遣いが目立つばかりと
なっていた。 生と死の混乱の最中で女の子の肩へ手を伸ばすことだけに集中
し、暴走を続ける神経を宥め、助けを求めた。力強く揺すられた女の子はびく
りとも動かなかった。その場に身を伏せた。もう動けなかった。ゴム鞠が跳ね
るような鈍い音のする咳が何度も喉から漏れた。体が端っこの方から段々冷た
くなっていった。地面が微かに湿っているのに気がついた。
「…ハハハ、笑っちゃうよ…捜索隊は僕の.場所を知っているはずなのに.だ
助けに来てくれないし、のろしは眠っている間に.ですっかり消えてしまった
みたいだし、おまけに原因不明の体調不良で今にも死にそうだし……もう終わ
りだよ、何もかも…もうみんなとは一生会えないような気がする…途中僅かに
希望の光が見えていたというのに…やっぱり最後は結局、僕はこの山で死ぬ運
命なんだ……もしこれが夢なのなら早く覚めてほしいよ……。」
こう呟くと突然、かぐや姫はぽつりと何かを呟いた。瞼と顔を同時にのんび
りと上げて、今君は何と言ったのか一呼吸に一言葉ずつゆっくり尋ねた。彼女
は短い沈黙のあと、顔を上げて再び口を開け、見下ろしたまま次のような言葉
を発した。
「…これは夢なんかじゃない。救助隊はまだここにやって来ていないの。そし
てあなたの言う通り、のろしはあなたが眠りに落ちてすぐににわか.が降って
すっかり消えてしまった。それとどうしてそんなに自分の体の具合が悪いのだ
ろうかと不思議に思っているかもしれないけれど、それは私のキスの効き目が
切れてしまったからよ。私に初めてキスされた人は大体丸一日はどんなに体調
や怪我が思わしくなくってもまるで何事もないみたいにピンピンしているの
だけれど、その効き目のタイムリミットが過ぎるとなぜかその人はキスされる
前の体の調子に戻ってしまうみたい…もっと簡.に言うと私のキスは麻酔み
たいなもの。もちろんそれが切れた後では以前より悪化している場合も確率的
には少なくない。大抵の人間は私にキスされてから平常な体に戻ったあと、麻
酔が解けるうちにこの山を脱出するみたいなんだけれど、中にはいつまでもこ
こに.座っていたり、再び迷子になってこの山から抜け出すことのできなかっ
た人間達は大抵もがき苦しみながら死んでいくの。私、そういうのも何度も何
度も気分が悪くなるほど見てきた……だからどうやらこのままだと、あなたも
その内の一人になりそう。だってあなた、今にも死に絶えそうな顔しているん
だもん。私の長年に渡る人間観察に基づく予想だと、もうすぐあなた、間違い
なく死ぬ。…これ、ホントの話。」かぐや姫はそう言うと口元を微かに緩めて
にやけ、そしてすぐにまた無表情となった。
完璧に取り除かれたものだとばかり思われていた魔女の毒リンゴの破片は
実は丸一日ひっそりと、自身の奥歯の隙間に影を潜めていたのだった。
…まんまとやられた。
まるで偽の一等当選の宝くじを抱いたまま高層ビルの屋上から突き落とさ
れたみたいな気分だった。それまで狼狽し、パニックになって慌てふためいて
いた心の流れが彼女の言葉によってカチンと凍りついてしまった。心臓を北極
海の底に重りをつけて沈めたような、そんな強烈なショックが胸のど真ん中に
突き刺さった。
…その衝撃は彼女の足元を初めて見たときに比べたら多少はだいぶ.るけ
れど。
驚きと極度の疲労のあまり、なかなか上手く言葉が出すことができなかった。
眼球は痙攣気味の瞼にほとんど飲み込まれてしまっていた。女の子はシルエッ
ト姿でしか確認することができなかった。もう僅かでも目を開き続けているこ
とが辛くなってきていた。このままぐっすりと眠りたかった。
とうとう力尽きてしまい、顎を地面に降ろして頭の体重を全て右腕に託した。
もう皮膚は何の刺激にも反.することができなくなってしまっていた。吐息が
熱い。何か彼女の残像のようなものを上からただぼんやりと眺めていた。それ
だけでも十分過ぎるほど美しかった。このまま意識を失ってそのまま死ぬこと
ができたらどんなに素晴らしいことだろうと心底思った。…彼女に出会えてよ
かった。
普通なら昨日の夜に凍死して呆気なく人生が終わっていたはずなのに、一日
寿命を引き延ばしてくれたばかりか、こんなにも素敵な女の子と仲良くなるこ
とができんだもの。
心の中でこう祈り、うっすらと口元に笑みを浮かべて最期の意識を体の内側
からベリベリベリ…と剥がし終えて永眠の海原に放り込もうとしたちょうど
その時、顔が地面と腕を離れて静かにゆっくりと持ち上げられたかと思うとい