釘の靴
も忘れてぼうこうに残尿感を感じながら急いでリュックのところに駆け、中か
ら水筒を取りだすと、また茂みへ戻って左手に腕時計を、右手に水筒を持ち、
腕を山頂に向かってできる限り太陽光を反射させて全身全霊で大振りした。
「…お、お、おーい! ぼ、僕はここにいるよぉー! 僕はここにいるんだよ
ぉー! た、助けてくれぇー! 助けてぇー! おーい! おーい!!!」
喉の内膜が必死さに切り刻まれそうなくらい大声を張り上げ、両肩をいつ引
きちぎれてもおかしくないほどの遠心力でぶんぶんぶんぶんと、期待と希望と
生で満ち溢れ変わったこの山の空気を思いっ切り掻き回した。それに.えて山
頂の旗群は一斉に振幅数の度合いを増した。
それに.えた。
彼らもまた再び.えた。
返す。
返ってくる。
返す。
倍になって返ってくる。
さらに倍にする。そのまた倍でリターン……。
という具合にかなりの間、無言の意思伝達の受け取り投げ合いのキャッチボ
ールを繰り返しているうちに、とうとう彼らはうろこ雲の生えた上空に、
ひゅるるるるる…。
と何か笛のようなものを喧しく鳴らし始めた。おそらく山中にいる他の捜索
隊や地上の対策末部の人達にこう知らせたのだろう。
?…僕末人かはまだ断定できないが、少なくとも遭難者らしき人間を発見し
たこと、そしてその人物にはまだ意識があり、我々と少しばかりであるが意志
の疎通ができ、辛うじて生存している。?
ということを。僕は喜びのあまり、無意識のうちにその場でガッツポーズし、
ヤッホー、ヤッホー! ヤッホー! と鋭利な雄叫びを突き上げた。そしてあ
るひらめきを思いついた。
…やったぁ! …ついに僕は助かったんだ!!!
僕は大急ぎで女の子の元へと戻り、腕時計と水筒を地面に置き、彼女の肩を
揺すりながら、「ねぇねぇ、聞いてよ! とうとう捜索隊が僕がいる場所を探
し当ててくれたみたいなんだ! きっともうすぐここにヘリコプターやら大
勢の救助隊かやって来て僕をこの山から救い出してくれるんだよ! やった
ぁー! これで父さんや母さんや姉ちゃんや学校のみんなと会えるんだー!
君のおかげだよ! ありがとう!!!」と嬉しさを爆発させて報告した。
返事がなかった。
彼女はいつの間にか地面に体育座りの姿勢を取り、いつかのように膝と胸と
腕とで囲まれた僅かな空間に頭を置いて、ただじっと黙っているだけだった。
彼女はきっと疲れたのだろうと勝手に解釈をして、さっき思いついたばかりの
グッドアイディアをさっそく試してみることにした。
まず始めに近くに転がっていた皮の剥げた手頃な大きさの丸太と枯れた葉
っぱや、からからに乾き切った木の枝を近くの茂みの中から持ってきて、リュ
ックの近くにちょっとした穴を地面に掘ってから昨日この森の入り口で見つ
けた棒っこを適当な長さに折り、皮の剥げた木を地面の穴の中心部に半分ほど
埋めてから、その表面の上に棒っこを立てて手の中で勢いよく擦り合わせた。
それはすごく根気のいる作業だった。でも僕は諦めずに頑張った。
それから二時間くらい経っただろうか、ようやく表面から真っ白い煙らしき
ものが微かに立ち昇ってきたので、すぐさまその場に腹這いになり、手で囲い
をつくってその煙にそっと静かに優しく息を吹きかけ続けた。すると煙は次第
に大きくなっていって、炎が少しずつ木全体に伝わり始めたので今度は枯れた
葉っぱや乾いた木の枝をその周りに.き詰めると、火は瞬く間にそれらに飛び
移り、好き放題に燃えに燃えた。それからどんどん巨大な炎の中に植物達の亡
骸を放り込んだ。そしてついに、この森で一番の高さを誇るであろう、彼女の
背後にそびえ立つ巨木の高さをゆうに超えた灰色の煙の搭が出来上がった。
…「のろし」の完成。
…僕の歓声。
…完璧だ。
…これで救助隊は間違いなく.場所が分かってくれるはずだし、すぐに見つ
けてくれるだろう。ふぅー、っと長くて喜びに満ちた溜め息をつくと腰を降ろ
し、.だに煙の存在にすら気づきもしない女の子に合わせて目をしっかりと閉
じて、そしてしばらく黙り込んだ。 時の気配を感じることなく僕ただ沈黙の
清涼な息遣いに耳を傾け、そっと心を寄せていた。半分ほど視界を開いた。冬
眠や死を目前にした小鳥の囀りや動物の寝言が森の奥から聞こえ、さらには暖
かな秋風に誘われて草木達がかさかさかさ…と音を立て、身をくねらせて思い
思いの感情表現を誰かに見せるというものでもなく、澄んだ円熟の青空をバッ
クにしてひたすら揺れていた。
睫毛から何かゴミが落ちてきたので反射的に瞳をつぶった。ふと溜め息が出
た。瞼の裏側と眼球の表面との隙間に言いようのない液状の疲れが溜まってい
るような気がした。実際僕はかなり疲労困憊していた。
…今救助隊が来るのをじっとして待っていなくっても?のろし?を上げて
いるんだから少しくらい眠っていたって平気だよね、あの調子だとあと数時間
はもちそうだし、その間に必ず大人達がここにやって来て呼び覚ましてくれる
に違いないし…。
あっ、でもその前に彼らは先に彼女のことを発見しちゃうかもしれないな…
でも、そのときには彼らにちゃんと誤解のないように彼女のことを教えてあげ
るんだ。彼女のことを守ってあげるんだ。そして彼らに彼女に二度と構わない
でと誓ってもらうんだ。
…あぁ、そういえばそろそろ彼女とはお別れの時間だよなぁ…短い間だった
けれどきっといつまでも君と過ごしたときのことを忘れないよ、君のことを…。
君のことを…。君のことを…。君のことを…。君のこ……。ふわぁぁぁぁぁぁ
……。
そう胸の中で独り言を呟くと地面に横になり、そしてリュックを枕代わりに
してうとうとと眠ってしまった。時はその間も当然の如く現在の腸の中を流れ
ていった。
再び目を覚ましたときには辺りはだいぶ真っ暗になっていた。一瞬まだ瞼を
閉じているのかと錯覚したほどだった。現実と夢の区別がつかないままその場
に立ち上がって腕時計のライトボタンを押して時刻を見た。
…二十時五十六分…。
えっ?
空を眺めた。暗闇が地上と一体化していた。周りを見回してみた。どこもか
しこも闇、闇、闇だった。
……ウソだろ?
のろしは?
捜索隊は一体どうしたのだろう?
ほっぺたを両手でぎゅーっ、と思いっ切り引っ張ってみた。飛び上がりたく
なるくらい痛かった、けどもちろん夢ではなかった。しかしこれが痛みの伴う
リアルに近い夢の可能性だってなくはなかった。目の前には女の子がさっきの
まんまの姿勢でうずくまっていた。 彼女の膝を揺すり、これは自身の夢なん
だろうかと聞いてみた。
全く返事はなかった。
しばらくの間沈黙があった。
…あぁ、やっぱりこれは夢なんだ、夢だったんだ、あぁよかったよかった、