釘の靴
けた茂みの側までよろめきながら辿り着いて身を屈め、胃の.消化物を全て戻
した。吐いた後も全く気分が優れなかった。胃酸が食道にどろりと粘っこく貼
り付いていて、体を内から締めつけるようにじっくりと、そして確実に蝕んで
いた。口の中そのものが胃になってしまったみたいにすっぱくて、激臭がした。
…また吐き気がする。
頭もふらふらする。
思わず地面に肘をついてしまった。胸の辺りが燃えさかる火炎に取り囲まれ
たように熱い。
…痛い。
昨日ここまでやって来たときのように、抱腹前進の姿勢をとり、向きを変え、
彼女のいる方へゆっくりのそのそと象亀のように動き始めた。彼女の顔を見た。
無表情だった。瞼以外の筋力は全て緩んでしまっているように思えた。瞬き一
つとしてしない。いや、しようとしていないのだろうか。まるで目を開けたま
ま永遠の眠りについてしまった様にも見えた。これじゃあまるで魂の抜け殻だ。
相変わらず美しいのには変わりはないが、どことなく人を絶望の.沼に陥らせ
るような美貌がそこにはあった。彼女の瞳から視線を徐々に降ろしていった。
足元を再び恐る恐る眺めてみた。視界に入った瞬間に胸の奥から強烈な体液が
唸り声を上げて破滅のグリフォンのように天に向かって逆流してきた。慌てて
目をそらし、真っ黒になった両手で口を塞ぎ込んだ。が、間に合わなかった。
目の前には小さな胃酸の溜め池ができた。致死的な苦痛と恐怖から半泣きにな
り、胃酸の池の中に黒ずんだ涙と砂埃の混じった鼻水をだらしなく垂らした。
脳裏にはかぐや姫は死んだ時間の中で生きているように輝かしく映っていた。
彼女の肩に一匹の蝿が止まった。そしてそれはすぐにぽろんとバランスを崩し
て足元の死体置き場に落下していって、それを下から待ちかまえていたあの奇
妙な甲羅を持った害虫がわさわさとその墜落現場に駆け寄り、僅かに息のある
蝿の肉を鋭い顎で引きちぎってむしゃむしゃと美味しそうに頬ばった。今度の
吐き気はなんとか堪えることができた。
ひっくひっくいいながら胃液の池を抱腹前進で通り抜け、元いた場所に戻っ
てきた。そして急いで水筒のワンタッチボタンの付いたねじ巻き式の蓋を取り
除いてそのまま体内に番茶の残りを流し込み、続けて二百ミリリットルのスポ
ーツドリンクも全て飲み干した。そうするとようやく胸の痛みも引いていき、
頭の具合もさっきより随分はっきり良くなってきた。ふぅーと心底溜め息をつ
き、ずっと前に注いでおいてそのまま飲まずに放置していた冷え切った僅かな
お茶を使って、汚物まみれの両手を丁寧に洗い流した。手に付着した水滴をド
ロドロのズボンで拭き取って体を起こし、クルッと向きを変えて彼女の方を見
ると、女の子は待ちくたびれたとでもいうようにいきなり両手を腰に当て始め
て頭を、
「まったくしょうがない。」
といった感じで細かくそしてゆったりと振った。その光景をあっけに取られ
てぽかん、と眺めているのを見て、彼女はうんざりした様子で長い溜め息をつ
いてこう言った。
「…どう? これで分かったでしょ? 私の尋ねにやって来た人間共が目の
色変えてここから逃げ出していくホントの理由が。それは同時に私がこの場所
から一歩も動くことができない原因でもあるんだけれどね…。
…あなたが初めてかな、私のホントの姿を見てここから飛び出さなかったの
は。頭のおかしな人達は別としてね…あなたけっこう度胸あるわね。私、あな
たのことちょっと見直しちゃった。あなたが苦しい顔をしてお腹の中のものを
あちこち吐き回っている光景はとっても可笑しかったけど。」女の子は唇を曲
げてにやけた。
「ハハハ……も、もっとも君のその足の有様を見て平気な人間なんて何処にも
いやしないと思うけどな……絶対誰でも反射的に頭や体が拒絶反.を起こし
ちゃうんだと思う…僕がさっきそうだったようにさぁ…君の言うように、もう
とっくにおかしくなっている人なら話は別だけどもね…。」下半身ではあぐら
をかき、上半身では頭をへへへ…と掻いた。
「それじゃあ、あなたは元々頭のおかしな人間だっていうのかしら?」彼女の
美しい瞳は馬鹿にしてあざけ笑うような淡い黒真珠のような輝きを放ってい
た。「…それとも、もっと特別な理由があって耐えることができたとか?」
あたふたして答えた。「そ、そ、そりゃあ、もちろん理由があってのことに
決まってるじゃん……あ、あの…だ、だって、ぼ、僕たち、と、ともだちじゃ
ない?」
「…ともだち?」女の子の表情が一瞬ムッ、と著しく曇った。「…いつから私
があんたみたいな弱虫とともだちになったって言ったっけ? …ちょっと仲
良くなったからって、馴れ馴れしいのにも程がある。」
突然の態度急変に思わず面食らってしまった。「えっ? …それはうーんと
……うーんと…うーんと……君の秘密を初めて見てしまったときからとか…
…ダ、ダメかなぁ?」
言葉を聞いて彼女の眉間に少し線が入った。「…私の秘密を見たときから?
…アハハハハハハ! あなた、おもしろいね! わかった、私とあなたは私
の足元をみた瞬間からおともだちになったってことで!」かぐや姫の顔にもや
っと、表情らしい表情がうっすらと浮かんできた。微かな笑み。心の霧のよう
なもやもやがすぅーっと少しずつだけどだんだんと晴れていくような気がし
た。先程まであんな苦しい思いをしていたというのに。誰もがこの光景を見て
絶句し(何度も言うけれどほんの一部の人間達を除いて…)、全身から湧き上
がる恐怖を味わい、そしてこの異様で狂いきった、普通では考えられない空間
から当たり前の如く姿を消した。もちろんこの森から逃げ出したり、首を吊っ
たり服毒自殺をしたり、あらゆる方法でこの空間、いや、この狭すぎる世界か
ら「姿をくらました」ということなのだが。まぁ、当然の行為と言えば当然の
行為だけれども、ある意味では彼らはこの現実から「目をそらしてしまった」
ような気がする。
「ワンピースを着た美しい女の子の両足に大量に釘が打ち込まれていた。」
という真実から。それは彼らが絶体絶命の死の淵に立たされていたときに彼
らの疲労した体が危険警報のようなものの存在として脳裏に映しだした幻覚、
すなわちイメージそのものだった。それらは実に見事にフィットしていたのだ。
いや、もしかしたらそれ以上の存在関係なのかもしれない。
やっと三流の仮説と結論が繋がったような気がする。どうやら彼女に説明し
た推論も、まんざらはずれていたわけではなさそうだった。そのような喜びを
末来の可笑しさに追加してかぐや姫に笑い返した。すると彼女の笑みがさらに
大きくなった。そして共に大笑いした。いつまでもいつまでも大笑いした。時
が経つのも忘れて大笑いをした。嬉しかった。だって彼女がお腹を抱えてこん
なにも笑ったのを見たのは初めてだったのだから。
「ハハハハハ……ね、ね、ねぇ、ところでさぁ、その足に刺さっている釘、全
然痛くないの?」