釘の靴
「…わ、私は、あ、あんたのそんな薄っぺらい同情なんか、これっぽっちもい
らないのよ! …あ、甘く見ないでバカ……。」そう明らかに動揺する彼女の
頭は垂れ、艶やかな髪がシルクのカーテンのように柔らかく、寂しげな表情を
隠し、しばらくしてからまたこう言った。
「…なぜ私がここから一歩も動くことができないのか、時間が経てばあなたに
もすぐ理由が分かるわ、きっと。」そして辺りには再び破り去ったはずの沈黙
が傷口を自己再生させてまたゆらり、ゆらりと包み込んできた。一見、いつも
通りの沈黙のように思えた。ただ一つだけ今までの沈黙と明らかに異なってい
るのは、その沈黙の中にいると時間の経過の流れをとってもゆっくり感じると
いうことだった。 彼女に言われたとおり、待ち望む時がやって来るのを静か
にじっと忍耐強く見守っていることぐらいしかできなかった。それ以外の不要
な時は何処か意識の領域の範囲から飛び出して、遠く離れた空間の中でひっそ
りと生き続けているみたいに思えた。
女の子から視線を外してじっと、くすんだ闇をぼんやりと見つめていた。冷
たさと悲しみと絶望と死を感じさせない、いや感じることのできない孤独な闇
をひしひしと胸の脈打つ場所で静かに感じ取っていた。それは彼女の心の中を
ほんの一部ではあるが鮮明に示唆しているようにさえ思えた。彼女もまた同じ
闇を凝視し、そして深く目を閉じた。辺りの気温が急激に低下したような気が
した。でもそれを自身のとっても鈍感な皮膚は、上手く感知することができな
かった。ではどのようにしてその変化に気づいたかというとそれは実に.純明
快なことで、いつも間にか目の前に吐き出されたマンガ末のふきだしのように
真っ白な息がぽつ、ぽつ、と生まれて浮かんではすぐにちぎれ、また生まれて
は浮かんですぐちぎれて……といった風に、一定のリズムを保って休む暇もな
く夜空へと上昇していく様子が視界に入ったからだった。そんな意味のある無
意識な作業と価値の全く無い異世界のような光景はこれからも永遠に続くよ
うに思われた。
暗い秋風が吹く。生気の薄れた草木が揺れる。闇が蠢く。いろんなものがあ
らゆる確率と可能性で絶え間なく姿形を変えていく。決して止まることを許さ
れない時の流れ。澄み切った夜の空。疲れ果てた満月と太陽。誰かが宇宙に散
らかしたまま、放置されっぱなしの名本と値本のついていない多くの星々。そ
して彼女とここにいる。時計の液晶画面は午前三時三十三分を示していた。
偶然だ。
それはマグレとも言うよ。
三
東の空からは太陽の到来を告げる朝の光が少しずつではあるがゆっくりと、
そして確実に夜空と地上の闇の一部を透明で純粋で無害な存在へと生まれ変
わらせていた。月の光もまたその影響で威力をさらに増し、下半身に潜む闇の
大群を一風し始めた。それはまるで、音の無い神聖な種族の狩りの様子のよう
でもあった。やがて全ての闇が辺りから姿を消した。
それはちょうど午前五時三十八分のことだった。丈の長さが膝頭程度のワン
ピースを身にまとった彼女は、その時刻に正確に美しさと沈黙と己の闇に溺れ
て洗礼された瞳をはっきりと開けた。それからかぐや姫はすっ、とその場に立
ち上がり、足元とその周辺に山積みされた落ち葉やら木の枝やら異様に肥えて
見える栄養分たっぷりの土やら人間が造った朽ちた商業製品などを両手で少
しずつ払いのけていった。
視線は彼女の美貌の中心的な存在である、麗しい瞳一点に注がれていた。そ
れを見つめているとなぜか期待と不安と好意が胸の奥から沸々と湧き上がっ
てきたので、なぜか思わず眼を閉じてしまった。それからしばらく間があって
からうっすらと瞼を開いてみると、素敵な女の子がにっこり笑って自分の足元
を右手の人差し指でじっと差しているのがぼんやり見えて、自分の微かな瞼の
震えに気がついたらしい彼女はようやくこう言った。
「…これが私がここから一歩も動くことのできない理由の一つ。これであなた
も納得できた?」
完全に目を開け、その指の差す方を見つめた。
……………………………。
声を完全に失った。声の出し方をきれいさっぱり忘れてしまった。言葉の生
み出し方さえすっかり思い出せなくなった。それは思考の仮死を意味していた。
体は硬直し始めた。そして次第に、他の器官も働きをすっかりあきらめてしま
ったようにさえ思えた。視力の機能を司る神経だけがデジタルハイビジョンの
映像のように鮮明に脳へと、いつも通り現実的な目に映る光景を送信し続けて
いた。
きちんと足並み揃えた裸足の彼女はしっかりとそこに「固定」されていた。
彼女の両足の表面には数え切れないくらいの釘が大量に、そしてあらゆる方向
から無惨に打ち込まれていた。それは想像を絶する光景だった。皮膚の中に何
の抵抗もなく潜り込んで貫通している無数の釘。その全てが既に酸化して焦げ
茶色っぽく錆びきっていた。肌が露出する隙間が見当たらないほど釘はびっし
りと両足に突き刺さっていて、それはまるででこぼこした革靴を履いているよ
うにさえ思えた。そして肌の露出の代わりに、釘と釘と釘と釘が造り出す十字
路のような空間がたくさん姿を見せていて、その中からホワイトチョコ色の蛆
虫が十五、六匹うねうねと身をねじらせて這い出てきていた。それらはびっし
りと釘で埋め尽くされたフロアーで、奇怪なダンスを踊る貪欲な悪妖精の幼虫
のようにさえ見えた。おそらく内部は…蛆虫に喰われてぼろぼろに腐りきって
いるに違いない。足首から踵あたりまでの元来白くて艶があり、滑らかなはず
である皮膚は異常なくらいに青紫色へ変化し、荒い紙やすりを乱暴にかけられ
たみたいにブツブツザラザラとした表皮に変わり果てていた。中には体が半分
くらいしか埋まっていなくて上半身がぐにゃりとあっちこっちに折れ曲がっ
ている血のべっとり付着した釘が何末か顔を出していた。たぶん彼女が自ら必
死になって抜こうとしたものだろう。
彼女の立っている地面の色は他の場所とは明らかに異なっていて、土が赤黒
く変色していた。そこには草木一末として生えていなく、その代わりに足元の
周りには虫の死骸やら動物の乾燥しきって朽ちた骨や毛皮やら同様に人間ら
しきものの頭蓋骨や服や靴やジャンパーやリュックによって不気味な灰の山
が築き上げられていた。それは長い年月を要して人工的産物によって自然に造
られたものだった。それらからは時の重みをずっしりひしひしと感じた。その
山の中腹を変な模様で光沢を帯びた紫の甲羅を背負った角の長い虫が奇妙な
触覚を忙しなく微妙に動かしながら、腐敗した何かの肉を何を急いでいるのか
口にせっせと放り込み、またせっせと歩き回っていた。
…………「釘の靴」……。
とてつもなく強烈な吐き気を嫌というほど感じた。一種の自己防衛システム
であった金縛りをとき解き、近くの死体のものらしき灰粉を載せた葉っぱをつ