ジェスカ ラ フィン
「残念だけど僕はじっくり煮詰めた人参か細かく摩り下ろしたキャロットジュ
ースしか口にしないよ」
ノェップは笑顔で首を振った。
「いいえとんでもありません! 新鮮な人参だから歯ごたえも味も抜群! 今
すぐ調理にかかればエクアクス様がお風呂からお上がりになさる前に召し上が
ることができますよ! お屋.からご用意してお持ちしようと思いましたがそ
の必要はありません。此処でご用意できます。やはりどうです? ソフサラコ
マさんも温泉にお浸かりになられては?」
ソフサラコマは丁寧に両足を拭き取って目を閉じて口を結んで威張った。
「いいや結構。僕は疲れているからそこのソファーでキャロットジュースを飲
みながらゆっくりとくつろいでいたい。明日の催しの構成も考えないといけな
いし」
「かしこまりました。すぐお作りいたしますので.々お待ち下さい。エクアク
スさん、私について来て下さい。脱衣場へご案内致します。番頭の横の「男」
という暖簾をくぐるとそこが脱衣場です。お好きな場所をお使いになって下さ
い。脱衣場の奥の左にある扉が浴場で浴場の右奥にあるのが露天…」
「いや大丈夫ですよ。今説明してもらった内容だけで0分ですから」
「ならよかった。私の説明だけでは不足だと思ったものですから…」
「いいえ大丈夫ですよ。ソフサラコマの面倒、よろしくお願いします」
「かしこまりました。ごゆっくりなさいませ」
僕がソフサラコマに頷いて立ち上がり暖簾へと歩いていくと、ノェップが横
から駆けて来て蝶番の板を上げてタイミング良く番頭に立った。
「雰囲気出るでしょう? 私結構凝り性ですから、末格的に…いらっしゃいま
せ…」
ノェップは自分の醸し出すムードに照れているのか酔っているのか、笑って
いた。僕は、
「おじゃまします」
と頭を下げて暖簾をくぐり脱衣場で布袋を置き、服を脱いだ。籠の中に服を
入れている時、ふとソフサラコマのペンダントのことを思い出した。それと同
時にタオルとバスタオルがないことにも気づいた。僕はもう一度服を着て番頭
に戻り、
「すみません、タオルとバスタオル頂けませんか? あとシャンプーと石鹸は
お風呂場にあるのでしょうか?」
と聞いてみると、
「タオルとバスタオルですか? この下にありますよ。シャンプーと石鹸は浴
場にありますけど。何枚必要ですか?」
「1枚ずつで」
ソフサラコマは番頭の下の戸棚からバスタオルとタオルをそれぞれ取り出し、
番頭の上に置いた。
「きれいなものです。.は2日前にもここに来ましてね、部下と一緒に洗濯と
掃除をやったのですよ。部下が畳んで入れたのですが、大丈夫ですよ」
そう言ってノェップは僕に差し出した。入り口横のソファーを見てみるとソ
フサラコマが伸縮ストローの刺さったキャロットジュースを寝そべりながら足
を伸ばして飲んでいた。
「随分ゆっくりとくつろいでいるね」
と声をかけると、
「サングラスがあればここはハワイだね」
と難いジョークを飛ばした。
「じゃあ行ってくるよ」
と振り返って言うとソフサラコマは、
「まぁ頑張ってくれ」
と言ってずずず、と、ジュースを空にする音を鳴らした。
内側に曇った両扉を開けてみると水の落ちる音がした。浴槽には人工の岩場
から温泉が流れ出ていた。浴槽は入って右側にあった。もう1つの大きい浴槽
は左手の洗い場の後ろにあった。僕は洗い場の椅子に座って桶でお湯を溜めて
両手で掬って鏡の曇りを消した。シャンプーの容器と石鹸の乗った台が上から
流れてきたお湯で滑って、位置を後方へずらした。元の位置へ戻し桶のお湯を
頭にかけてもう一度桶にお湯を溜めて全身にかけた。体を洗い終わってタオル
を絞ると、浴槽には入らずに大きな浴槽と浴槽の間にある露天風呂の扉を通っ
た。外へ出てみると湯気が晴れて段差の下に岩造りの露天風呂があった。段差
を下りていき、露天風呂に片足を入れてみて.し熱いことを確認すると、手で
かき混ぜてその音に聞き入った。体を入れて肩まで浸嘗ていると真ん中に木の
葉が浮かんでいるのが見えた。風は吹いていないがそれはゆっくりと回転した。
僕は葉を掴んで岩の縁から手を出して地面に置いた。移動した場所に背中を当
てて両手を伸ばして顔を上にあげて溜息をついた。空は曇っていた。何処から
か川の流れる音が聞こえてきた。渓谷の冷たい水。僕は喉を鳴らした。ソフサ
ラコマのことが頭に浮かんだ。時間のことは頭になかったが.しずつ気になっ
てきた。木々に囲まれた露天風呂だからか、空から虫やごみが入ってきて風呂
の中で回っている。お湯を掬い、顔を洗って岩に肘をついて寛いでいた。する
と突然、林の中から物音がした。誰かが草の中を走っているような音が。僕は
思わず忍者か何かかと思った。しかし動物だろうと思って心を落ち着かせた。
そして通行所の若者のことを思い出した。体を上げてもう出ようかと思った。
タオルで体を拭きそのまま脱衣場まで帰ろうかと思ったが、もう一度体を洗っ
て中の浴槽に入ろうと考えた。ソフサラコマもノェップもこんなに早く上がっ
ても上がらなくても何も思わないだろうし、彼らがなんだか眠っているような
気がして、やっぱりゆっくりすることにした。
体を洗い浴槽に浸かった後、やっぱりもう一度露天風呂に入りたいような気
分になった。露天風呂の上の空はさっきよりも暗い曇り空だった。空がなんだ
か遠ざ嘗ていっているように見えた。頭の上にタオルを乗せていい気分に浸ろ
うと思い、手を広げて滝から流れる温泉をずっと見ていた。葉が摩れる音がし
た。誰かいる。ノェップが電話で呼んでいた交代を任された若者であるような。
無意識に姿勢が傾いた。岩に手を置いて向こう側の林の様子を伺ってみた。人
影が右から左へ移って木々の中に消えていった。僕は頭の中で何回もその様子
を思い返してみた。僕の身に何かが降りかかる不安が広がってきて落ち着かせ
ようと気を静めた。
すると、
「あのー」
という声が脱衣場の奥のほうから聞こえてきた。ノェップの声だ。何か言わ
れる前にさっさと上がりたい心境に駆られた。
「はーい」
と声を張り上げて風呂を出るのも恥ずかしいが、何か言われることもすごく
嫌な性格なのでやっぱり、
「はーい」
と声を上げてそそくさと風呂を上がってしまった。
暖簾をくぐって進むと、怒って床を飛び跳ねているソフサラコマがなんだか
珍しく映った。横に立っていたノェップは肩をほんの.し狭めてソフサラコマ
を客めていた。2人は僕が見ないうちに仲良くなっていたようだった。ソフサ
ラコマはタップダンスをノェップに見せているようだった。
「燕尾服と蝶ネクタイとステッキとシルクハットがいる。憶えておいて。ここ
のところこうしたほうがいいかな? それともこうしたほうがいいかな? う
ーん…自分では分からないな。だから君に見せて自分なりに良いものにしよう
と思っている。どうだろう?」
作品名:ジェスカ ラ フィン 作家名:丸山雅史