transcendence
夜の街のディスコは僕の肌には合わない。ただ、其処で無理をして留まって
居れば、僕は何か一つ、詩の題材になりそうな喪失感を思い出すことができる、
いや、哀愁か。凡才の女が空間の喧騒を沈黙させる。僕はまだ敢えて助走しな
い、崖の淵から右手を伸ばし、誰かに現実という地獄に引き戻してもらう為に。
僕は博打が得意だ。僕が淵に居るのか、他者が淵に居るのか。何故僕が此処に
存在し、詩人として作品を書いているか。それはこの心臓が止まってくれない
から、また止まるのが怖いから。手出しは無用です。
桜並木の下、僕の記憶は凍結されている。理由の無い切なさは誰もが持って
いる。ただ、僕の場合、他人よりその数が.しだけ多いだけなんだ。心が痛む
記憶、心象、晴天と大海原。僕は違う人生をやり直されたら、と、小さな頃よ
く考えていた。ある時は教員となり海の美しい地方で生涯を全うし、ある時は
天文学者となり、毎晩宇宙の秘密を探ることに没頭する。夜が明けて朝がやっ
て来て、僕はフラッシュバックに襲われた。もうすぐ鮮度を失う僕の心象物語、
産毛の生えた桃の皮膚、僕の心の暗闇と呼.する唄。ホット・カフェオレの香
り漂う土曜日の朝、森、曇り空。僕はこのまま神に葬られたい。
平面上で無数の突起物が頂を翳し、後ろを振り返れば僕の脳裏を過ぎった全
ての不吉な出来事が死滅し、平穏が拡がっていた。記憶喪失の彼は何処へ行っ
たのだろう? 僕の心の核心に僕が近付くにつれて、多くの人々が職を失って
いった。紺色のドレスの裾に付いたレースが彼等の喉に詰まる。僕はぶらりと
六月の曇り空の土曜日に電車に乗り、田舎へ向かう。
僕の憤怒が十八歳の彼等を燃やし続ける。「このディスコは一体何なの?」、
と都会から大学の夏季休暇で故郷に帰省した未成年の女は言う。確かに踊って
居る人間達も、建物のデザインも終わっているかもしれない。でもこんなディ
スコのフロアにしゃがみ込んで僕は、人々と一定の距離を置いてノートの切れ
端に書いた詩に火を点けるのさ。ただ絶望して失望して、僕以外の人間の巻尺
を夜な夜な盗み続ける。そしてその度に溜息を飲み込み、思惟に耽る。
一輪の花が咲いた。それは雪解けの終わった春の事だった。僕は其れの死を
哀れんだ。僕達全生命体は一体全体…、記憶は形となって永遠に残り、限りな
く完成された生命体が絶滅する最後の最後まで、彼等を幸福で満たすものにな
ることを願っている。アルコールが体中に浸透し、僕は複数で居ることに虚し
さと切なさを予測して、言い様の無い感慨に耽り、頭の中で一輪の花が朽ち果
てていくのを黙って待って居る。
ignorance
モノクロのティアラが僕の両目の中で輝いて居る。誰も知らない深い二月の
森の湖の水面にはそう映って居た。水面に映った僕は、悔しさと緩んだ背筋に
窒息死しそうだった。この森には動物も、何の為に生きて此処に居るのか分か
らない昆虫や、微生物は存在しない。純潔。僕は一人畔に座り込み、空気の唄
に耳を澄まして居る。此処で僕は、宇宙は三次元であるという確信を得た。小
鳥の囀りが聴きたい。僕には此処が春なのか夏なのか、秋なのか、冬なのか分
からない。森の外では季節は輪廻しているが、僕の心臓が眠りに就きたがって
いるこの森の中では、季節という概念は存在しない。浮遊する意識。水面の肌
を逆撫でする青い風。古典童話に出てくる森の狩人の焼身が湖の中央に浮かん
で居る。そっと木々の葉を水の肌に落とし、僕の心を埋めるこの空間の匂いを
届ける風。悲しい死に方をした、とだけ報じられた女の通夜の席のような匂い
がする。
喉を湖の水で潤す。桃色の春の心象が僕の迷いを切り裂き、視界を明瞭にさ
せた。森を捨てて外へ出る。排気ガスの匂いと人々の喧騒に思わず嘔吐した。
死神がうろついているので、皆が皆、マスクをしている。僕は脳裏にこの宇宙
と対極に在る、呼び名の無い宇宙に向かって唾を吐いた。アイシュウがそこら
中に転がっており、其れ等をボランティアの人々が涎を垂らしながら拾い上げ
て胃袋の中に放り込む。河川敷のホームレス達が、嘗て僕を半殺しにした屑共
をリンチして居る。
白い空に向かって階段を上がっていく。風が強く、何処まで上って行けるか
分からない。精神的に自立した僕に、其れに掛かる金がついて来ない。「此処」
からはあの森が見えた。人間は階段を上り続けさえすれば簡単に死ねるのだ。
僕は階段に腰を下ろし、すっかり温くなったホット・カフェオレを飲みながら、
花火を眺めて居る。花火が空気と同化すると、僕は再び階段を上がり続けた。
別に死にたい訳じゃない。ただ単に、地上を描写することにいい加減うんざり
したのだ。
森は僕の心の中で、いつの間にか成熟して居た。涙、発狂、怒り。僕はニー
チェと友達になりたかった。この心の奥に蓄積した土、微生物、何の為に生き
て居るのかという理由すら見出せない昆虫、動物がもがく度に、僕は爆発しそ
うに成る。長い沈黙を経て、地獄で生涯を全うした人間達が聖人となり、その
森で暮らすようになる。インターネットの世界には太陽が無い。其れが一番い
けない。教会、ステンドグラスから射し込む光、その中のミサ、鼓膜に染み渡
る讃美歌。失意の間は全身の皮膚の神経が電流によって震え、無性に感情を吐
露したい。僕はできることなら真実をしっかりと掴んだ後に死にたい。たった
一つの真実だけを。
完璧な人間程恐ろしい生き物は居ない。それは虚構の神をも凌駕するのだ。
しかしこの僕をもっと苦しみ、絶望へと追い込んでいるのは、僕の才能を理解
してくれる人間が居ないこと、或いは.な過ぎることであろう。僕は馬となり、
大草原を風のように駆け抜け、天馬となって……。僕は生きたい。でもこの意
識が、死を恐れているのだ。ベビーカーに乗せられた赤子が脳天に拳銃を突き
付けられても、純粋無垢な微笑みを浮かべるような心が欲しい。僕は、無の無
知になりたい、何故なら自分が無知であるが故に恐怖を味わなければならない
のだから。其れが不可能だと知りつつも僕は、詩を書き、ファウストのような
完璧な知性を手に入れようとしているのだから。
modesty
清らかな青藍の流転、僕の右目の向こうで其れは熾る。真っ二つにされた鯛
はゆっくりと瞼を閉じ、僕の家族の喧騒だけに耳を塞ぐ。項垂れた青年、彼は
仕事や友人達よりも家族を大事にすると云う。文という列車がトンネルの中へ
吸い込まれていく。其れはブラックホールよりも焦燥を冷やす、揺さ振るのだ。
名詞が車両、接続語が連結器、車掌は声高らかにアナウンス、「皆様の皮膚の
黒子は宇宙の静止画です」。
規則的な輪廻を繰り返す律動。女神の和声が僕を包み込み、光と成す。存在
の消えてしまった僕は、日向の窓の日溜まりとグランドピアノの上に積もった
埃との現象的反.によって生まれ変わる。僕は自分の分身である日溜まりに座
り、其の温もりを感じ、孤独と戯れ、誰一人人間の居ない大きな世界で言いた
いことを叫ぶ。
作品名:transcendence 作家名:丸山雅史