transcendence
踏切からの投身自殺への渇望の女の影が僕の足元から伸びて居る。そう、僕
の思考が他人の二乗分拡がったのは、あの踏切で列車が通り過ぎるのを待って
居た時から。午前四時の夕暮れ、パチパチと撥ねるBBQの音…。尖る唇。歌
うのに疲れる曲、六年前の僕の小さく、幼い世界の匂い。涙を流しながら聴き、
歌った曲の数々、今の僕ならば、昔の自分を救えたかもしれないと思い始める
と、僕は体を縮込ませ、硬苦しい、硬直したこの肉体から解放されるかもしれ
ない。
涙を流した後に啜った鼻水。僕達はもう取り返しのつかないところまで列車
に乗ってやって来てしまった。この唄が心のスポンジに染み込み、陳腐な甘さ
加減でホイップクリームを満遍無く塗れば、他の片想いのケーキと共に硝子ケ
ースに並ぶんじゃないかと思うんだ。ブルーソーダー色の大空、常夏の砂浜。
綺麗に手入れされた臍の奥の匂いに似た風が僕達を笑顔にさせる。僕達が若し、
もっと早く出会えていれば、幾つかの命は救われたんじゃないかな?
人形の水晶体を噛み砕きたい願望、数百年前の船乗りの航海日誌と、無名の
小説家の古びた小説に舌が思わず乾いてしまうが、港町の此の市場が僕にとっ
て一番の心の拠り所なのかもしれない。貿易船が二十四時間行き来し、遠い外
国の珍しい品々が市場に並び、其の中には僕の気管支までも置いて在った。潮
の香り。
ぐにゃぐにゃと曲がった散文詩、再版された真新しい僕の詩集。此処は天国
であろうか。認知症の兆候が現れ始めたのではないか、と不安にさせる父方の
祖父。「命は大切に」、選挙の前日に立候補者達はそう拡声器で僕達市民に注
意を呼び掛けるが、昨日車に撥ねられて死んでしまった中年の女性のことで血
塗れの脳内は一杯と成り、不快を感じずにはいられなかった。疲れ果てた心に
丁度良い、追憶の性質を帯びた音楽に身を浸らせ、再び.上がりの空の下の水
溜りに自分の姿を映し出そうとするが、其処には僕の顔等一つも震えてはいな
く、馬鹿馬鹿しい世界と小指の赤い糸を歯で、思いっ切り引き千切ってやった
のさ。元々未練等僕の中に存在していなかったから。
enumeration
春。土曜日の朝食、世界で二番目に美しい夜…。雨の街、濡れた影。言葉と
は自分を映す鏡である、とドラクロワによって描かれたショパンと僕の絵画は
言う。孤独同士とは、時代を越えて想像上で結びつき合うものである。別れの
曲との長いお別れ、可愛らしい仔犬が雨に濡れて居る。ぶるぶると体を震わせ
ながら、此方を見つめて。冷徹な僕は自分に血の気が引いてしまうが、就寝す
る時に感じる室内の寒さと、孤独の悲しさに比べたら何てこと無い。可愛らし
かった仔犬の遺体は、まだ静かに街の雨に撃たれ続けて居る。
天使の降臨、脳裏に浮かぶ、異国の街並み。僕は瞼を伏せ、其の街並みを見
下ろすように、上空を飛び回る。季節は夏。木漏れ日色の心で涙の道を歩き、
どうして詩を書くと切なく成り、涙腺の根元から感情を具現化したものが込み
上げて来るのだろう。僕は大人と成ったが、今も心は生々しくもうぶな、其の
表面を文字に反射させている。他者に己の弱い部分を見せたこと等無かったが、
上辺だけの会話で笑って居る僕だけには、こっそりと曝け出すのだ。
恋心を寄せていた女から僕は、次第に其の想いや存在を消していく。雨降る
土曜日の午前中に、公園のベンチに一人座って居る女子大生が、僕の心を捻じ
らせた。彼女は薄い文庫本を読み耽っており、僕が女の心の中に居座って居る
ことに気付かない。胸の痛み、一期一会の確率、女が僕の中に複数存在し、暗
闇の中、彼女達は何処までも肩車の塔を高くしていく。残念ながら顔の造作は
好みでは無かったが。
太陽があらゆる方向へ、雲平線に光の道を創造し、其の道に胸を擦らせなが
ら、涙の向こうへ、星々の氾濫を瞼の中、脳裏に閉じ込めて、飛行し続けたい。
夜空を飲み込み、僕の心から脳へ、孤独であり続ける原動力に変換させてもら
う。もし、イヤホンから噴き出している、見えない慰安が夜空の消えた見えな
いものの中で僕を癒し、飛ぶことが許されなければ、この散文詩等書かなかっ
たに違いない。数十年前、胸の映写機をモノクロの中で上映しなかったら、僕
は其の観客達から顰蹙を買っただろう。目に見えない全ては僕の感情を冷たく
し、凍り付いたバスケットボールのように、高校生時代の体育館で夜な夜な、
撥ねようとしても撥ねること等できない。
短い散文詩は初めに僕を憂鬱にし、真冬の真夜中に星を流し、最後に達成感
と恍惚を齎す。重力が地球上から何者かによって盗まれ、僕達はロープや鎖を
外された仔犬と成る。詩作を行う僕は脳にストレスを溜めざるを得なくなり、
死に掛けの美しい女囚人と鉄格子越しに激しい接吻を繰り返す。夜を失った太
陽は刑務所の外観を溶かし、チョコレートの味のする大型犬の水溜りを世界中
に点在させる。
濁ったレモンティーにレモンは同化し、パソコンのキーボードを叩く音を室
内に響かせて死語と小人は死んでいく。爪楊枝の束の匂いが僕の想像力の孤独
を浮き彫りして、かつ丼の肉の破片の軌跡を記憶し、揚羽蝶、老化の始まった
詩人の空と胸の痛みを増幅させる。恍惚感が夢の世界の喫茶店のレジカウンタ
ーの前で待って居る。結ばれた単語と単語が几帳面に折り紙の上で乱反射し、
其れ等は太陽に還って行くのだ。宇宙飛行士の虫歯が疼く頃、僕は一人別荘で
春の庭を眺めながら土曜日の朝食を摂り、生きているみたいに、若しくは死ん
でいるみたいに、そっと心象世界から抜け出す。
silhouette
ぶれた感性、動揺した感情、癲癇のような恍惚感。脅えるピエロ、叩き付け
るピアニシモ、今死んだ感情。無に、僕は無に成りたい、詩人は断固として我
が儘であり、その分孤独である。水族館の巨大水槽の中には肉食魚に食い殺さ
れた海豚の死体が六つ。海水と水中生物達の体臭が混じり合った匂いが僕を異
国の港町へ誘う。
砂漠の花に海水をぶちまける。其れから其れを蹴り飛ばし、砂の中へ埋める。
息が切れて、此処は僕の心の安息場であると己を洗脳する。女は処女に戻り、
空へと還る。精神的に息切れしながら港町へ急ぐ。
市場では新鮮な魚介類や、異国の珍品が並び、日本人でごった返している。
鉛のように重たくなった体を引き摺り、裏市場を抜けて広場の階段に腰掛けて
自殺する。太陽が燦燦と死体の僕を照らし、人々は僕を踏み付けて階段を上が
って行く。叩き付けるようなピアニシモが聴こえた後、激しい台風がやって来
る。最早、此処は劇場では無い。暴風.が僕の血の影を吹き飛ばし、魂の入っ
た硝子玉に罅を入れた。其の硝子玉は港町と其の潮の香りと共に風化し、今は
其れを拾い上げた旅人の指を切るだけである。
夜に成ると人魚のように美しい女の歌声が何処からともなく聞こえて来る。
死体の心を揺蕩う死後の世界の夜空の雲は僕の気管を上昇し、やがて煙草の煙
と共に狂気の世界へ流れて行く。其れで終わらない物語、其れで終わらない人
作品名:transcendence 作家名:丸山雅史