MARUYA-MAGIC
が、呼吸を整え、クリーム色の剥げたドアを軽くノックし、返事が聞こえると、
ノブを回して.内へ入った。
.内には、一人の老婆が椅子に腰かけていた。暫く入り口で立ち止まってい
ると、老婆は鋭い眼光で僕を睨み付け、たかと思うと急に穏やかな表情へと変
わり、老婆の指示に従い、目の前の椅子に座った。そして履歴書を取り出し、
老婆に見せると、うん、と一言だけ頷き、「採用」と一言だけ呟いた。その日
から僕は、朝早くから夜遅くまで、毎日、老婆から渡された出刃庖丁で、倉庫
から冷凍保存しておいた?時間?と、?空間?を解凍させ、切り刻む作業を始
めた。しかし僕の仕事内容を観察していた老婆は、僕に、そんなんじゃ駄目だ、
と激怒し、手末を見せてくれた。見事な包丁さばきだった、時間や空間は、微
塵切りによって切り刻まれ、それを僕が真似しながら老婆よりも薄くそれらを
最小単位にまで切ると老婆は三日月のような目を満月のように丸く開いて、「や
はりワシの思った通りだ」と微笑すると、駆け足で隣の研究.らしき部屋に行
き、数日間籠ってしまった。老婆の発現の意味が分からないままその間も僕は
ひたすら、時間と空間を切り刻み続けた。
老婆が研究.から出てきたのはそれから十日後であった。頭にフケがこびり
付き、髪型は爆発していたが、体臭は香水で消していた。僕は、「今まで一体
何をなされていたのですか?」と質問すると、老婆は、「この宇宙の誕生の秘
密を解き明かすのに成功したのだよ、お前さんには随分と世話になった、さぁ、
アルバイトの報酬として、幾ら欲しいんだい?」と訊ねてきたが、僕は、「お
金は要りません。この宇宙の誕生の秘密を解き明かしたのですよね? ならば、
給料の代わりに、僕と一緒にオープンカーをレンタルして、遠い海辺までドラ
イブへ行きませんか?」と微笑んだ。すると老婆は、「こんな婆と一緒にドラ
イブに行ったって楽しくも何ともないぞ」と言うと、僕は、「もっと物理学者
の貴女と話がしたいんです、お願いします、僕と一緒に夏を満喫しましょう!」
と説得すると、老婆は.し頬を赤らめ、暫しの沈黙の後、承諾してくれた。僕
達は早速オープンカーをレンタルし、江ノ島まで老婆とドライブを楽しんだ。
傍から見れば、祖母と孫のような関係に見えるかもしれないが、僕達二人はそ
んなことを気にもせず、すぐに打ち解け、真夜中の浜辺に着くと、白く朽ちた
流木に一緒に座り、老婆から物理学の魅力について興味深く聞いた。それから
僕達は何度も海辺へオープンカーで向い、老婆から物理学についての話を沢山
聞き、僕は哲学についての話を老婆に聞かせた。僕達は二人共、物理学の根底
に流れる現時点の僕には説明ができない何かが流れているのと同じように、哲
学も然り、そしてその二つは表裏一体の関係なのではないかと思っていた。そ
れはとても楽しい夏休みの一時であった。
新学期が始まると、僕は哲学科から物理学部に編入し、週未には必ず老婆の
元を訪れて.だ解明されていないこの世界の謎について議論し.い、将来は老
婆の下で働こうと心に決めた。
時空
僕の「時空」は僕の胸の中に存在し、様々な「時空」に関する文献を読み、
己の時空について深く認識する為に、「詩」という媒体を利用し、答えを導き
出そうとしている北海道本幌の真夏の昼下がり。僕はとある四LDKの一軒家
に単身赴任で住み、仕事の傍ら、今年で十歳になる娘からのメールの返信を繰
り返している。大きな窓に掛かる純白のレースから濾過された、眩く熱い光が
僕の網膜に跡を残して、新しく降り注ぐ光の下でそれは堆積する。
僕は日陰で「時空」というタイトルの詩を執筆している。「時空」について
はこの詩で書くつもりはない。それは読者の皆様が、「時空」について学び、
それを踏まえた上で、この「時空」というタイトルの詩を読んで頂きたい。し
かし、当の僕と言えば、「時空」の概念については七割程度知っているだけで、
その知識をこの詩で活かせるかどうかは全く分からない。何故なら僕は今この
詩を、とあるシンガーソングライターのベストアルバムを聴きながら、気の赴
くままに綴っているだけであるからである。光、の死体は、日溜まりをつくり、
僕はこのアルバムの.曲目の唄が死ぬまで永遠に頭の中で流れ続けてくれれば
いいなと思う。僕達はこの星で、四次元空間に向けて両手を伸ばし、宇宙と一
体になれることを誰しも望んでいる、と僕は根拠も無しに勝手に思う。夏の夜
の.、僕は外に出て、その空気を吸えば、目を凝らして見えた南国のような気
温に恵まれた楽園の心象を脳裏に思い浮かべることができる。真夏の夜、僕は
詩作に励み、僕の妻は、いや違う、もう.年前にもなるだろうか、二十一歳の
君がピアノで.情的・感傷的な曲を奏で続ける。この四LDKの一軒家で。
その時、僕はきっと、君とは違う世界にいるのだろう。黒い時空の捻れ? 黒
いツイストドーナツ? 僕以外の人間は皆存在だけを失い、真夏であろうと、
汗を掻いて一生懸命に働いている。渋谷のスクランブルエッグ交差点で人々は
転倒し、その中心は陥没し、アリジゴクの餌食にされてしまう、と想像しただ
けで身震いがする。此処は物理学の世界の先端を走る学者達のBARだ。君と
は「Zepp Sapporo」の「時」の概念を抜いた「空間」で、僕はも
う一度会えることができたらいいなと考える。君は僕の心と涙腺を一番震わせ
た六曲目の唄を歌い、僕のそれらはウィンドチャイムを鳴らす方向へ流れてい
く。そうして僕は心と涙腺を君に奪われる。君は自分で感動して自分で涙する。
肉人形の僕は、今まで積み上げてきた様々なものが崩壊することに動揺すらせ
ず、詩人を辞めて東京の自宅で君が再びあの小汚いBARの片隅にあるグラン
ドピアノで、ベストアルバムの六曲目を演奏してくれるまでずっと寝たきりで
ある。
「時間の矢」の上を「過去」に向かって歩き続ける。此処は宇宙の夢の中、
娘が浅草に行って来たお土産に、「醤油団子」を僕に買って来てくれる。其れ
を曇った視界で見てみると、「ビックバウンス」ならぬ、「宇宙の多重発生理
論」を想起させた。「時空」、僕は今まで、あまりに適当な推測で宇宙に関す
る詩を書いてきた。それは当たっているものや近かったものが多々存在してい
たが、それ以前に、既に先人達が考えていたことも気付かずに、僕は有頂天に
なっていたのだった。僕はもうすぐこの詩を書き終えるが、目の前の日溜まり
と、目の前には存在しない君、僕の左手の薬指には妻とお揃いの指輪を嵌めて
いるが、それが僕の首を極度に締め付ける代物でしかないと気が付いた時、僕
は涙した。
量子重力理論
「量子重力理論」における、新しい理論の候補についての激しい討論を終え
た学会の帰り、僕は夜の冷たい闇に体を食い込ませて家路に着こうとしていた。
坂末龍一の「戦場のメリー・クリスマス」を聴きながら、僕が半年かけて作成
した「量子重力理論」の新しい理論のレポートは、先程通ったゴミステーショ
作品名:MARUYA-MAGIC 作家名:丸山雅史