山を翔けた青春
元旦の朝は高曇りで、気温は氷点下摂氏13度。
男7人女6人は1つのパーティーとして行動し、前夜は中央稜のコルで雪洞を掘った。
トップとセカンドは交替しながら、細いが強度のあるケプラーロープを固定していった。ユマールとカラビナで各自は登り、ラストがロープをからだに巻きつけて回収していった。
稜線の雪庇が大きく張り出していた。
雪庇に穴をあけるより右側に回り込むことに決め、登り出したその時、トップの頭上30メートルの所にあった雪庇が5〜6メートルにわたって崩れ、パーティーを直撃したのである。
トップが最初に滑落、続いてセカンドが、そして上部の者から次々と雪壁から放り出され、固定ロープの支点はすべて飛ばされた。
ロープに繋がったまま高度差700メートル、距離にして1200メートルを流された。
止まった時、全員ロープでぐるぐる巻きの状態で、動けるものはナイフでロープを切断していった。
4人は人工呼吸をしても息を吹き返さなかった。
意識朦朧の状態の吉田恵子と、意識はあったが動けない山下富子をシュラフに入れ、ツェルトの中に入れた。
山下は大きな声を発していたが、
「もうあかん」
と言って意識が薄れ
「おなかが いた い」
と息絶えた。
救出してから30分後である。
軽症の者ふたりが、伝令として部落に向かって走った。
と同時に無線で呼びかけ、アマチュア無線家に傍受されると、警察とヘリコプターの出動を要請したのである。
留守本部が報道関係の窓口となり、別の場所に遭難対策本部を設けた。また報道関係者が遺族に接触できないように対処した。
長性院には、5つの棺が並んでいた。
山本慎吾は、長性院から実家の山梨へ。
保美登江は、伊丹空港から奄美へ。
救援に駆け付けた仲間たちと、秋山浩二と寛子はテント撤収などにあたり、1日遅れて大阪に帰った。
4日が告別式だった。
井上富男、西浜なつ子、山下富子の葬儀には手分けして参列した。
出棺の時、山下富子の母は走り出て柩にしがみついた。
「いややあ いやあ いやあ 行ったらあかん、行かんといてーー、とみこお〜〜、いやあ〜〜〜」