山を翔けた青春
梅田にある東通り商店街を抜けて、5分ほど歩いた所の雑居ビル2階が、共同で借りている山岳会のルームである。壁にはキャビネットが並び、本や会報誌、バインダーなどがぎっしりと詰まっていた。4つの長テーブルとパイプイスが数十脚。
待ち合わせの山の店から山下と山野に連れられてルームに入ると、すでに数人の男性が談笑していた。
「はじめまして、岡田寛子です。よろしくお願いします」
「あっ、よろしく。ここ空いてますから、どうぞ」
部屋の中央部にあるイスに腰を下ろした。
笹木を含めた女性3人は隅の方に座って、話し込んでいた。
「ゴールデンウィークに穂高で春山合宿を予定してるんですが、行きますか?」
「はい、行きたいです」
岡田はハイキングが好きで近郊の山をよく歩いていたが、雪山に行きたいという気持ちが強くなり、山岳会の門をたたいたのである。チャンスがあればすぐに飛びつく、というのが信条だった。
出発までの1カ月の間は、アイゼンを着けて歩く練習をした。
涸沢をベースに、北穂高へ向かう斜面で滑落停止練習をしてから北穂へ。新人は男性の古藤と女性の岡田。他も男性ばかりで、初日から彼らのペースについて歩くのにヒィヒィの態であった。無論この日も下りになると、足はガクガクした。
翌日は、奥穂を通り前穂までの往復だった。奥穂を過ぎた頃から足の運びが悪くなり、ついに弱音を吐いた。
「そしたら、風の当たらない岩陰でツェルトかぶって休んどいて」
彼ら5人はいくらも経たずに戻ってきた。
3日目午前中は雨で、テントの中でトランプをして過ごした。回復の見込みがないので下山する準備をしていると、北鎌尾根を縦走してきた山下と山野が現れた。
山下は目からポロポロと涙を落とし、充血させていた。
「雪目になったわ。甘く見てサングラスかけへんかったんは失敗やった。だれか目薬ない?」
岡田は自分用の眼薬を差し出した。
「ようそんなんで無事に来れたな」
と、会のリーダーは安心を含んだ声できつく言った。
「慎重に、慎重に、ちゃんと見えへんから山野さんがリードしてくれたおかげ。それで遅うなってん。間におうてよかったぁ」
下山の途も速かった。みんなよりかなり遅れて歩いていた岡田の横を、涸沢でゆっくりしていた山下と山野がさっと追い越して行った。
「ホホホ、がんばりや」
完全な敗北感に打ちのめされてしまった岡田寛子。辞めた方がいいかな、という気持ちが湧いていたが、雪山の魅力にはかなわない。
黙々とトレーニングを重ねた。会社への往復は小型リュックに朝食と着替えを入れて走った。片道4キロではあったが、帰りは長い距離を探して走った。
週末は近郊のゲレンデで、登攀練習とボッカに力を注いだ。
大阪山岳会は毎週水曜日にミーティングを開いている。仕事を終えてほとんどの者は、ラフな格好でやって来た。
腕組みをして坐っている岡田の向かいに山下がいた。
「な、なに、岡田さん、その腕・・・」
ムフフフフ、と笑って岡田は右腕を曲げて力を入れた。
「すごーい、どんなにトレーニングしても女性には筋肉つけへん、思うてたのに」
「工夫次第ですよ」
梅雨が明ける頃のこと、山下はジムに通い始めた。また、化粧も止めた。