心と口と行いと生活で
で、温かい体温を私の肉体から放たれる体温と混ぜ合わせ、もう一度激しく交わった。
三 私の記憶の中の、王女と白亜の巨城の存在すべき場所
王女の裸体を抱き締めながら迎えた朝は、森の外の、自宅で迎える日曜日の朝と非常に
酷似していた。私はベッドから起き上がり、服を身に着けると、ジーンズの右ポケットに
入っていた目覚ましガムを取り出して口に入れ、クリーム色の朝日に満ち溢れた窓辺に立
ち、外の景色を、王女が目覚めるまでずっと見つめて居た。野鳥や虫達の鳴き声が盛んに
聞こえ、まるで映画に出て来る、太古の森を私に連想させた。
「お早う御座います」
私が反射的にその声が聞こえて来た方向に体を向けると、ベッドの左端に、両足を下ろ
した、シルクのローブ姿の王女が居た。
「素敵な朝ですね。此処は、貴方様の、記憶の中の世界です」
王女は微笑みを浮かべ、立ち上がると、私の傍の窓辺へやって来て、外の世界の景色を
眺めた。
「此の世界は、貴方様の愛していらっしゃった女性が亡くなった日を、延々と繰り返して
存在しています。恐らく、貴方様がその御方を此の世界で御救済しない限り、永遠に永遠
は続くので御座います」
「もし、私が?あの方?を救済してしまったら、貴女や此の城はどうなるのですか?」
「私や此の城は此の世界と共に年老い、いつかは貴方様と共に、現実の世界の一部と成る
でしょう」
「私達現実の人間が持つ記憶とは、やはり?脳の外部?に?記録?しない限り、そのまま
肉体と共に腐敗し、やがては消えてしまうのですね?」
「現実の世界は、其の世界を生きた人々の記憶で溢れています」
王女は私の方を向き、真剣な表情で答えた。
「だから世界は美しい」
「その通りです」
「其の世界から生まれた人間も、やはり美しいのですね」
王女は私の其の言葉には答える事は無かった。
礼拝堂のパイプオルガンが朝の新鮮な空気を食べながら、バロック音楽を自ら奏で始め
た頃、私は一階の調理場で珈琲を飲み終え、王女の間へ上がり、王女に此の城を出、森を
出て、私の世界とは一体どのようなものなのか、実際に此の目で確かめに行き、先輩の自
殺を食い止めに行く、と告げて、白亜の巨城を、森を出た。
幾重もの光のカーテン捲り上げ、ようやく外界の世界にも目が慣れ始めると、視界に飛
び込んで来たのは、現実世界と相も変わらない、田園風景であった。ただ、現実世界と異
なる事といえば、其れ等無数の田園には水が.き詰められていて、其の中で一定間隔に植
えられた緑色の幼い米の苗が飛び出ている、という事であった。此処は私の、二千四年の
五月第二土曜日の世界。先輩が睡眠薬自殺する前日だ。其の事を思い出した瞬間、ふと左
腕の腕時計の時刻を見て、あと.しで先輩が此の森へ、私に逢いにやって来る時間が刻々
と近付いて来ている事で途轍もなく緊張していた。すると、畦道の向こうから、一人の女
性の姿が現れて、やがて彼女が私の姿をはっきりと見据える事のできる距離まで近付いて
来ると、彼女は.し小走りに成って、私の目の前で立ち止まり、微笑みを浮かべて私の顔
を見上げた。
「貴方が先に此の森へやって来るなんて珍しい」
「今日の講義があまりにも退屈だったので、先輩より先に来ちゃいました」
私は十一年ぶりの再会の感動のあまり、号泣しそうに成ったが、涙が一筋溢れ流れる前
に俯き、右手の親指で其れを強い力で拭い、其の体勢のまま、苦笑いした。
「一週間ぶりのはずなのに、何だか十何年も逢っていない気がするのは何でだろう? 其
れに貴方、此の一週間でかなり大人びたような……」
「気のせいですよ、先輩」
「そうかなー」
先輩が.し困惑した表情を浮かべて唸って居る最中に、突然森の奥から、パイプオルガ
ンが奏でる、悲しい旋律が流れて来た。
「ねぇ、森の奥から何か、パイプオルガンの音が聴こえて来ない?」
私は先輩から其の言葉を聴いた瞬間、一瞬にして血の気がひいた。もし、先輩があの白
亜の巨城を見つけ、興味本位で其の中へ入り、彼女と瓜二つの王女の姿を見たら、彼女は
確実に激しく混乱してしまうであろう。
「いや、僕には全くパイプオルガンの音なんか聴こえませんよ」
私がそう誤魔化すと、まるで私達二人の会話を白亜の巨城の礼拝堂から聴いていたかの
様に、突如、其の音は鳴き止んだ。
「私の空耳かな? まぁいいや、兎に角、いつもの森の拓けた場所へ行かない? 私、此
の一週間の貴方に話したい事が沢山あるの。さぁ、行こう!!」
先輩は私の左手を掴むと、笑顔を振り撒きながら私を引っ張って森の奥へ入って行こう
とした。
「先輩!!」
「何?」
先輩は振り返り、ブロンズに染めたショートボブの髪の毛を翻し、私の顔を見上げた。
「やっぱり今日は何処かで御茶でもしながら、御話し致しませんか?」
「どうして?」
先輩は突然笑みを崩し、無表情で私に訊ねた。
「それは……」
私にはすぐに、先輩に返す言葉が無かった。
「何を躊躇っているの? いつもなら、貴方が率先して私を森の奥へ連れて行ってくれる
はずなのに。ねぇ、なんか深刻な顔しているけど、大丈夫? どこか具合でも悪い? そ
れなら、いつもの場所に行かないで今日は帰る?」
先輩は自分の顔を私に近付け、瞬きを数回した。私は王女と瓜二つの先輩の美し過ぎる
瞳を見つめて居ると、私は彼女の其の表情を脳裏にしっかりと刻み込み、自分の両瞼を閉
じ、心のままに彼女の唇にキスをした。
「ち、ちょっと…」
先輩は唇と唇の隙間から言葉を零したが、私が何時までも彼女の唇から自分の唇を乖離
させなかったので、彼女は両腕を私の背中に回し、私にそのまま身を任せた。
どれ位キスをしていたのか分からない。ただ、再び森の奥からパイプオルガンの明るい
音が森の入口まで聴こえて来る様になると、私は先輩の唇から私の唇を離し、両瞼をゆっ
くりと開けて、彼女の両肩から自分の両手を取り除くと、彼女に言った。
「森の奥に在る、?白亜の巨城?へ向かいましょう。此の音は、其処の礼拝堂から流れて
いるのです」
先輩は私の意味がまるで分からない、という様な驚いた表情を浮かべて居たが、私が彼
女の左手を握り締めて歩き出すと、彼女は無言で.し俯いたまま、私の後に従った。
私と先輩は所々で降り注いでいる、朝の光の木漏れ日に体を濡らしながら、森の奥深く
へと歩き続けた。
「ねぇ、?白亜の巨城?って何? そんな城なんて、此の森の中には無かったわよ? 貴
方一体どうしたの? なんだか、いつもの貴方じゃないみたい…」
先輩は私の右手に左手を引っ張られながら、今にも躓きそうな歩き方で私にそう訊ねた
が、私は視線を真っ直ぐに注いだまま、彼女の問いには答えなかった。パイプオルガンの
明るい音は、私達が白亜の巨城に近付くにつれて、次第にはっきりと大きく聴こえる様に
なった。
「ねぇ、貴方、本当に変よ? …私、なんだか怖く成ってきちゃった…。やっぱり、今日
のところは帰…」
「先輩」
私は立ち止まり、溢れ出しそうな涙を堪えながら、先輩の方へ振り返った。
作品名:心と口と行いと生活で 作家名:丸山雅史