心と口と行いと生活で
瞳を確かに見据えると、胸を突き出す様に彼女の元へ駆け出し、彼女を抱き締めた。
「…御久し振りです、王女……」
「ようやく逢えましたね……」
私と王女は顔を見合わせ、彼女の瞳から涙が溢れて頬を伝った瞬間、長い接.を交わし
合った。
私達は王女のベッドの上で激しく交わり合い、悲しいバロック音楽が彼女の寝室まで流
れ終わり、夜風が窓硝子を震わせる頃にようやく互いの肉体から離れた。
「昼に唄は流れません。明日の扉が開かれる数時間ばかりだけ、永遠に終わる事の無い唄
は此の世の哀愁に依って歌われ、夜と夜の隙間を漂う様に流れて逝くのです」
王女は限り有る命を持つ、私の耳元でそう囁いた。
「何故、此の巨城と貴女は此の五年もの間、此の世界に姿を現さなかったのでしょう?」
「其れは、私が?存在すべき場所?に戻って居たからです」
「?存在すべき場所?とは?」
私はそう訊き返す時に、自分の鼻の先端を、王女の其れに擦ってしまったが、彼女は全
く気を咎める気配は無く、私の瞳を見つめ続けて居た。
「其処は宇宙を包み込む此の世が生まれた、貴方様の記憶の中です」
「私の記憶の中ですか?」
私は驚きの余り、微かに頭を後ろに退いた。
「そうです。満天の星空の様に澄み切った、広大無辺な貴方様の記憶の中の、美しい世界
です」
「貴女には、私の事がその様に映るのですか?」
「はい……。私は、貴方様を永遠に愛し続けます」
王女は微笑んでそう答えると、大きな瞳を閉じ、私の鼻の先に自分の其れを付け、顔を
傾けると、果実の様に瑞々しい張りを保っている唇を、私の唇に密着させた。其の時間は
随分と長く、私は永遠の温かさを感じ取り、時間の観念を忘れた。
それから毎週、土曜日になると、私は五年前と同じ様に、王女の居る、白亜の巨城を訪
れた。と同時に、私の精神状態も回復し始め、やがて精神病院には通わなくてもよくなっ
た。季節は夏から秋へと変わりつつあった。
私の周りの友人達や知人達は、殆ど全て、結婚し、家庭を築いていた。私は彼等からよ
く、「結婚しないの?」と訊ねられる。そんな事を言われた夜、私は一人自宅でひどく落
ち込み、激しく泣く。そして部屋の暗闇の中で瞼を閉じ、王女を脳裏に思い浮かべるのだ。
どうしてひどく落ち込み、激しく泣くのかは私自身が一番良く知っていた。其れ等の理由
とは、端的に言うと、?永遠とは命に限り有る者には儚いものである?からである。私は
王女を確かに愛している。しかし、現実とは残酷なものであり、私を本当に、心から愛し
てくれる人等、此の世には一人として存在しないのであった。所詮、王女は私の記憶の中
の世界にしか存在しないのであり、私は只、不思議な事に、現実と幻想を行き来する事が
できる、特別な人間である、というだけの事であるのだ。此の考えは、私が十一年かけて
ようやく導き出した結論である。枯葉の様な寂しさが、孤独な風に吹かれて、私の心から
遠ざかり、私は其れを冷静に客観視していた。
「どうして貴女は五年もの間、?存在すべき場所?に戻って居たのでしょう?」
「其の答えは、貴方様の御心の中に存在します」
「しかし、幾ら考えても、私には全く理由が分からないのですが」
王女はベッドから上半身を起こすと、美しい裸体の胸元までベッドのシーツを上げた。
「私が此の世に存在する為には、ある一定の眠りが必要なのです。其の為に、五年間、私
と此の、白亜の巨城は、?存在すべき場所?に還って居たのです」
此の白亜の巨城を囲む深くて大きな森の木々は、厳しい寒さの冬を乗り切る為に、一斉
に葉を落とし、栄養を蓄え始めていた。私も王女のベッドの上で上半身を起こし、窓の外
の風情の有る晩秋の風景を見つめて居た。
「ということは、また此の世に存在する為に、数年間、私の記憶の中の?存在すべき場所
?に、貴女と此の白亜の巨城は還って行くのですね?」
私が王女にそう訊ねると、彼女は途端に大きな瞳に涙を溜め、私に頷くと、小さな両手
で小さな顔を覆い尽くし、泣き始めた。王女はいつまでもいつまでも泣き続けた。
「いつ、貴方様の前から、此の城と共に、私が消えてしまうのか、私自身には分からない
のです。…ですから、貴方様に御逢いする事ができるのは、今日で再び終わりかもしれま
せん…。そして、また此の森、いや、此の世に、此の城と共に私が姿を現すのは、いつな
のか、全く分からないのです……」
王女の寝室は蝋燭を一本も灯していない為に、窓硝子で濾過された月の光以外、此の空
間を覆う暗闇を貫くものは存在しなかった。つい先程まで涙を流して居た王女は、私がふ
と欠伸をし、私に眠気がやって来た事を知ると、彼女の寝室の窓際の壁の掛け時計に視線
を移し、私に注意を呼び掛けた。
「あの時計の二つの針が12を越えると、此の城も、私も、此の世から姿を消してしまい
ます。そして、此の城に其の時刻まで残って居ると、貴方様も、私達と同じ様に、貴方様
の記憶の中の、?存在すべき場所?へ引き摺り込まれ、其処から出る事ができなくなって
しまうでしょう」
「私が私の記憶の中の、貴女方が?存在すべき場所?に、ですか? つまり、其れは具体
的に、私は一体どうなってしまう事を言っているのでしょうか?」
「つまり貴方様は、此の城と私と共に此の世で存在しなくなり、現実の世界で意識を失い、
貴方様御自身の記憶の世界の中で、次に此の城や私や貴方様が、此の世の土曜日の森に、
姿を現すのは、此の世界に存在する為に必要な、?十分な眠り?を蓄えた後となります。
貴方様は、此の五年間、私への愛を貫いて頂いた代わりに、精神を深く病んでしまいまし
た。貴方様も、此の先、長い人生で、生きている分だけ苦悩や挫折が沢山有るだろうと思
いますが、そんな時は私と此の城を思い出して、毎週土曜日に私の元へとやって来て下さ
い。此の私は、貴方様に最大限の愛情を捧げますので、其れに依って、貴方様が病んだ心
を癒して頂ければ、此れ以上の喜びと幸せは有りません。…それではもうすぐ日付けが変
わるので、もし私に此の世に存在できるだけの力が有れば、来週もまた、貴方様に御会い
できると思います。…それでは、正門まで御送り致します…」
「待って下さい」
私は王女の裸体の両肩を両手で支え、彼女の大きな黒い瞳を心に大切に刻み込んだ。
「私も、貴女が還ろうとしている、私の記憶の中に在る、貴女と此の城の?存在すべき場
所?へ行ってみたいと思います。そうすれば、現実の世界にはいつ戻って来られるか分か
りませんが、これからは貴女や此の城と一緒に過ごす事ができます。ですから、私も、あ
の時計の針が12を過ぎるのを、此の城の中で、貴女と待って居ようと思います。宜しい
でしょうか?」
王女は驚いた表情を浮かべて、暫く私の瞳を凝視していたが、やがて涙を大きな瞳の目
縁に大量に浮かべると、私の名前を呼んで、私の唇に接.し、私の体に抱き付くと、程良
い大きさの乳房に掛かっていたシーツが落ち、壁の掛け時計の二つの針が12を過ぎるま
作品名:心と口と行いと生活で 作家名:丸山雅史