心と口と行いと生活で
「.は、外見の汚れを洗い落とすだけではなく、内面まで洗い落としてくれるものです」
王女はシルクのローブの胸元を静かに閉じ、私の見ている窓辺に近付いて来た。
私は珈琲カップの上から王女の目に視線を移し、微笑んで頷いた。
「温かい.ですね」
「此の森も、さぞかし喜んでいることでしょう」
私は珈琲を飲み干すと、ベッドの左側に在るテーブルの上のミルクを珈琲カップに注ぎ、
一気に飲み干した。
「こうして時間が過ぎ去って行くのですね。貴女の永遠の時間が羨ましいです」
「私達の出逢いは以前も、現在も、此の先も必然です。貴方様はまた、此の空間に存在し、
ミルクを注いで其れを飲み干すのです」
「輪廻の観念を超越した観念ですね。再び、いや、これから礼拝堂から悲しみの曲が流れ、
私と貴女は次の土曜日まで逢う事ができないのですね」
「礼拝堂のオルガンは、私の心そのものです。そして、此の巨城が土曜日だけ、此の世界
に姿を現すのも、私の意思そのものなのです」
王女は私に微笑みを浮かべると、再び窓の外の景色を眺めて居た。潤んだ窓から見える
景色は、完全に乾き切っていない水彩絵画の様に美しかった。
其の景色の記憶はそれから私の脳裏から離れる事は無かった。私はふと、施設で徘徊し
ている一人の老女の姿を思い起こした。何故突然、其のワンシーンがフラッシュバックし
たのか理由は分からなかった。
「此の.は、私の感情です。そろそろ、空に暗闇が滲み始める時間ですね。此の巨城と共
に、私の存在も此の世界から消えます」
「しかし、私が貴女を忘れない限り、貴女は永遠に存在し続ける。人は、死んでしまうと
肉体だけではなく、記憶までも失ってしまうのでしょうか?」
私を正門の前まで送りに下りて来た王女に、私は訊ねた。
「記憶は貴方の心の一部と成ります。ですから、私という存在は永遠です」
「さようなら。御元気で。また来週、伺います」
「心を清く、正しくもって生きて下さい。貴方が過ちを犯せば、其の分だけ貴方の心は遠
ざかり、貴方は多くの夜を過ごさなければなりません。清く正しい貴方自身の心を信じて、
詩作と仕事に精を出して下さい。それでは御機嫌よう」
「さようなら」
「さようなら」
私は王女に口づけし、別れの挨拶をし、正門の左の扉を開け、もう一度王女の切なさに
溢れた表情を見つめると、あとは振り向く事はせずに、空気に暗闇が滲んだ様な外界に出
て、駆け足で森を出た。此の日を最後に、毎週土曜日に王女の住む、白亜の巨城は此の森
に姿を現す事は無くなった。
二 三十歳
私は此の五年でケアマネージャーと成り、詩集を二冊出した。相変わらず売れ行きは芳
しくなかったが、私は私の作品が此の世に出、.なからずも人々に読んで頂いている感謝
の念を忘れずに、日々詩作に没頭していた。土曜日に白亜の巨城が現れる、あの森には五
年前から毎週の様に訪れていたが、幻がみる夢の様に、あたかも其れが土曜日だけだった
にしろ、存在しなくなった事に、深い絶望に苛まれていた。其の為、私は自分から自殺の
願望から逃れる為に、心療内科に通い、其処の女性医師に診てもらう事になった。其れが
二十七歳の事である。
「此の二週間、御具合は如何でしたか?」
「毎週土曜日になると、自殺願望が顕著に脳裏を過ぎるんです。あと、.の日や夜中等に、
激しく頭が混乱するんです」
「仕事中に体調が悪くなったりしませんか」
「人の中で働き、生活する事には苦痛を感じないのですが、仕事の帰りの地下鉄等でふと、
バロック音楽等を聴いて居ると、暗い世界に一人だけ取り残された様な気が致しまして、
胸が痛く成りますね」
「土曜日や.、夜、バロック音楽等に何か、トラウマみたいなものがあるのですか?」
私は女性医師の質問を聴いた直後、胸が激しく痛み、無意識に自分の眉間に皺を寄せそ
うになったのを、力を込めて辛うじて止めた。
「…いいえ、ありません」
「そうですか。もし御気分が悪くなったら、遠慮せずに此方に電話下さいね。それではま
た」
女性医師は微笑みを浮かべて診察室を出る私を見送った。
薬局で精神薬を受け取った帰り(今日は八月の第三土曜日であった)、そのまま帰宅せ
ずに、地下鉄の終点まで乗り続けると、今度は市電に乗り継ぎ、そのまま田園風景が広が
る土地の終着駅まで行き、降りた。
「有り難う御座いました」
電車の中には、三十分程前から、乗客は私一人だけであった。私は駅員に微笑みを浮か
べて軽く会釈すると、プラットホームへ降り立った。
五年前のあの日から、白亜の巨城と共に、王女が完全に存在を消してしまった根源的な、
若しくは間接的な理由や原因が私はどうしても知りたかった。しかし、其れ等に対して答
えを私に与えてくれる他者は他に誰も存在しなかった。まるで長い悪夢をみている様であ
った。
駅を出ると、私は炎天下の下、曲がりくねった畦道を、ひたすら歩き続け、嘗て私が大
学の先輩が自殺する前日に逢い、五年前まで、毎週土曜日になると出現していた、白亜の
巨城の在った森の中へ入った。
森の中は様々な木々の葉に依って光と熱が遮断されている為、半袖では.し寒いくらい
に感じた。動物達や虫達の鳴き声が絶えず聞こえて来る。
何十分程歩いただろうか、ある時突然、嘗て白亜の巨城が土曜日に存在していた方角か
ら、悲しい旋律のバロック音楽が流れて来たのを耳にした。私は若しや、と思い、駆け足
で其の方角へ向かうと、なんと其処には、五年前の五月中旬の土曜日に出現していた、白
亜の巨城が立ち聳えていた。
私は唖然として、白亜の巨城を見上げた。間違いない、此の城は五年前の土曜日から忽
然と姿を消した王女の巨城だ。私は胸の高鳴りを鎮めながら、白亜の巨城へ恐る恐る近付
いた。名前の分からない鳥が鳴き声を発しながら、白亜の巨城の上空を横切って行った。
私は巨城の正門前に立った。夏だというのに、蝉の鳴き声は微塵足りとも聞こえなかっ
た。其れに加え、先程まで鳴き叫んで居た動物達や虫達がまるで存在する事を何者かに拒
否されたかの様に、沈黙していた。いや、此の異様な程の静寂は、彼等を此の森の中から
存在を完全に消しさられた様な静寂であった。私は気が付いた時には唾液を飲み込んでお
り、いつの間にか全身が冷え切って、皮膚に浮かんでいた汗が消えている事に思い及んだ。
悲しい旋律のバロック音楽が正門の奥から響いている。私は礼拝堂のパイプオルガンを
思い出し、そして王女の顔を脳裏に浮かべた。五年…。私は正門の青銅でできた輪を右手
で力強く引っ張り、右側の門を素早く開け、全力で廊下を走り、螺旋階段を駆け上がり、
王女の間へと無我夢中で向かった。そして私は王女の間の扉の前で、荒い呼吸を整え、扉
をゆっくりと開いた。
室内が薄暗く感じるのは、空が雲に覆われたからだろうか、私の立てた扉を開ける物音
に、反射的に反応して背後を振り返ったのは、紛れも無く、五年前、いや、十一年前に睡
眠薬自殺した私の大学の先輩に瓜二つの、美しき王女であった。私は王女の大きな二つの
作品名:心と口と行いと生活で 作家名:丸山雅史