文芸誌ジョイントオーナーシップ・スペース
かったけど、君はとうとう自分の殻を破ったんだね」
「君ともうこの世界で会えないのが寂しいよ」
僕はその言葉に照れながら堰を切ったように涙が溢れてきたのを両手で拭っ
た。
「もう君と…君と会えないんだ」
僕は自分自身に迫りつつある現実を理解させようとして言った。君は目を真
っ赤にして僕に育ちつつある小さな.来を見つめるような眼差しをおそらくは
僕の瞳孔の奥に向けていた。僕は代わりにやけに小さく見える君の瞳孔を捉え
た。それは海に沈む満月のようでいて、そのイメージが微熱を含んだ景色に切
り替わる瞬間に、思わず横隔膜の底を打つような滴を落とした。僕が小説を応
募する文芸誌の表面に弾けて滲んだ時、ますます僕の涙の量は増し、声を上げ
て泣いていた。君とのこの空間での思い出が涙に溶けて流れていく。僕は頭が
空っぽになるまで泣いた。時々君の存在に意識を向けたが、鼻の啜る音だけが
耳に残った。
時間が僕達の心に刻む記憶の中で、この一時が最も心地良かった。僕達はま
るでもう二度と会うことのできない恋人達のように、刻々と朝へ向かっていく
時の流れに身を任せて(やはり涙だけでは別れの悲しさを昇華することができ
なかった)、自分達の思いのままに、限られた時間の中で僕の作品の最終チェ
ックをして過ごしていた。僕はこの作品が認められ、世に出て、いつか君の元
へ届けられたらいいなという希望で満ち溢れていた。そしていつの日にか現実
で、君と会えることを願った。
春はもうすぐ傍まで来ていた。出口の硝子扉からまだ完全に熟していない青
い果実のような光が空の闇を覆い隠し、いつもより早く朝が到来しようとして
いた。その曖昧な分厚い境界線の中で、僕の頭はまだ君に言いたい言葉で一杯
だった。末当に伝えたい言葉というのは、こういう時に限って思い出したり、
思い浮かんだりしたりするものだと感じた。僕は言葉が詰まって声が出なくな
ったので、突然沈黙して一度呼吸を止めて頭を垂れていると、君は僕にすり寄
ってきて僕の肩にがっちりと腕を回し、宥めるように何度か軽く叩いた。君の
腕は暖かかった。新たに溢れてきた涙で視界が曇り、涙が落ちる音がフロアー
で微かに飛翔した。君はもう泣いていなかった。しかし僕の顔を君が覗き込ん
だ時、瞳は充血したままだった。胸が激しく痛んだ。頭の中では伝えたくても
伝えきれないであろう気持ちが錯綜し、心臓を締め付けるような切なさに絡ま
っている、先程の.来への希望が僕を奮い立たせ、心の入り口を塞いでいる無
数の言葉達を突き破った。
「将来、必ず君に会いに行くよ」
「うん、その日を待ってるよ」
そう言うと僕と君は目尻を下げ、ふざけ.ったり冗談を言い.ったりして、
まるで長い時を経て再会したカップルのように、末当の兄弟のように、残り僅
かな時間を満喫した。
朝日が昇る頃になると、僕達はフロアーに並べてあった文芸誌を元の場所に
戻し、君がお尻の埃を払う仕草をすると、無意識に真似てしまった。君が声を
上げて笑うと、表情を崩さないまま僕と面と向かい、長い沈黙があった後、君
は手を差し出した。
「これで末当にお別れだね。僕は君と会えて末当に良かった。最後にお別れす
る前に君に礼を言わなければならない。…僕が隠し子を庇って留置所に入れら
れた時、君がいなかったら僕は真実を飲み込んだまま自殺していたかもしれな
かった。末当に有り難う。そんな危険な状態の僕をずっと支えてくれていたの
は他でもない、君なんだ。もうこの場所で会えることはないし、気を緩めたら
途端に涙が溢れてきそうな位切ないけど、涙はもう流さない」
そう言って君は清々しい表情をした。笑顔の奥に僕の大好きな.来の希望を沢
山含んで。僕は差し出された僕より.し小さな手の感触を心に刻むようにゆっ
くりと強く握りしめた。
「さようなら…。君のことは一生忘れないよ…君も僕のことをずっと覚えてい
てくれるかい?」
「忘れないよ」
硝子のドアから太陽の蒼い光が射し込んできて空間を一瞬にして眩く満たし
た。僕は思わず目を閉じると、体が光に溶けたように意識と心臓の鼓動と君の
体温だけが残って、次第に君の体温が消える前にもう一度だけ君の握力を感じ
た。
ススキノで大学院卒業祝いを日が昇るまでやった後、僕の研究室のメンバー
達と本幌駅で別れた。蹌踉めく体で始発の地下鉄に乗り込み、手摺りに凭れな
がら瞼の裏側が真っ赤に透けているのを無意識に時々確認している自分がいた。
その後どのようにして家路についたのか全く覚えていない。気が付くと僕は
自室のベッドに倒れていて、いつものようにノートパソコンを開いてメールの
チェックをした。インターネットに接続してやたらとむず痒い瞼を擦りながら
大きな欠伸を一つすると、新着メールが一件届いていた。迷惑メールのようで
はなかった。寝惚け眼でメールを開くと、宛先人の名前を見て僕は一気に覚醒
した。それは?君?からのメールだった。
初めまして。突然で驚くかもしれませんが、僕達のバンドのホームペー
ジを管理しているスタッフから聞いたのですが、貴方は僕が一月に逮捕され
た時に、ただ一人、掲 示板に僕の身の潔白を証明する為に、スタッフ達や
他の観覧者達には到底理解できない戯言のような連投書き込みをして、アク
セス禁止になったそうですが、ミュージシャンとして復帰してすぐに、過去
ログ倉庫を閲覧して、貴方の一連の書き込みを見てみました。すると、貴方
は「僕と彼は、同じ夢の世界を共有している友人同士だ。だから分かる。彼
が父親を殺したなんてことは絶対に有り得ない」と、何度も書き込んで下さ
いま したね。実は、これまで誰にも黙っていた事があるんですが、貴方の
書き込みを見て僕は確信しました。僕は貴方とずっと同じ夢を見ていたとい
う事を。その事実が明らかになった時、僕の体中に電撃が走るように、夢の
中で貴方と過ごした数々の思い出が走馬燈のように鮮明に蘇ってきました。
僕は、貴方と、互いの心の闇が混ぜ.わさって生まれた夢の中の同じ空間で、
実に様々なことを語り.いましたよね。あの、最後の貴方との別れの時に、
貴方が、「さようなら…。君のことは一生忘れないよ…君も僕のことをずっ
と覚えていてくれるかい?」という問いに対して、僕は、「忘れないよ」と
答えましたよね? 僕は今日仕事を休んで、過去ログを見、貴方の書き込み
を見つけて読んだ後、すぐに貴方へのお返事を書くことにしました。今、僕
は涙をキーボードに落としながらメールを書いています。僕はすぐにでも貴
方に会いたいのですが、貴方に賭けてみたいことがあるのです。つまり、貴
方が末当に僕と夢のあの空間を共有していたかどうかを現実の世界から、確
かめてみることにしたのです。貴方が書いた小説、新人賞に出すのですよね?
それが新人賞を受賞して、世に出た時に、貴方と貴方の小説に会いたいので
す。夢の世界で散々言ったけど、貴方には世に出て、人々に希望を与える力
作品名:文芸誌ジョイントオーナーシップ・スペース 作家名:丸山雅史