小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

珈琲日和 その6

INDEX|2ページ/3ページ|

次のページ前のページ
 

「いえいえ。謝るのはこちらの方です。何しろお飲物を出すのがすっかり遅れてしまいましたので」
 大変お待たせいたしまして申し訳ございませんと、僕は雑談で中断されていた2人の珈琲をそれぞれの前にお出ししました。おまけにチョコレートを添えて。2人は、それでも黙っていましたが、お出ししたそれぞれの珈琲を一口飲むとたちまち元気になったようでした。
 やれやれ。僕は弱い日差しが入り込む窓から、白い空の下所存投げに佇む寒々しい木を見やりました。


 それから数週間、その雑誌の反響か、店は年齢層様々な独り者のお客さんでごった返していました。もちろん全てご新規の方です。逆に常連の方は全くと言っていい程、さっぱり寄って来なくなったのです。僕としては嬉しいやら寂しいやら。けれど、そんな見当違いな目的でいらっしゃる方々は長くは続きません。最高で2回程来て、何も効果が出ないようならさっさと諦めて来なくなります。当たり前です。僕の喫茶店は何の変哲のないただの古くて汚い喫茶店なのですから・・・
 店はまるで築地市場の様に声が飛び交い活気が溢れ、煙草の煙と人臭さと珈琲だか紅茶だかの臭いが溢れ、トイレに並ぶ列まで出来ていました。有り得ない光景です。尋常ならざる人の波に、小太郎は怯えて怖がってしまい、いつも蓄音機の後ろに隠れていました。しかしその回転の早い事早い事。喫茶店なのに、あっという間に人が入ってきたと思ったら注文が来て、やっと飲み物が出たと思ったらあっという間にお勘定して出て行きます。一体ここは何処でしょう? ファーストフード店? ファミレス?
 僕は例によって一人だったので、もちろん回りません。回る訳がありません。なので、こっちはまだか!あっちはまだか!遅い!クレームの嵐です。一体彼らはここに何をしに来ているのでしょうか? ただ飲み物を胃に流し込むだけなら、自動販売機でも充分用が足りる筈です。ですが、追い返す訳にもいきません。この時程、小太郎のように固定した店を持たずに自由に飛び回れる身を羨ましいと思った事はありませんでした。僕は本当に苛々しながら無口にただこなしていました。

 3週間後、店はまったくいつも通りに戻りました。いえ。むしろ、前より暇になってしまいました。常連の皆様方はどなたも、静かな雰囲気や落ち着いた時間を好む方ばかりでしたから、人で溢れ帰って騒がしい芋洗いと化した店には寄り付く筈もなかったのです。店内は前よりも一層くたびれて、汚れてしまったようでした。彼方此方に食べこぼし、飲み物のシミなんかが目立ちます。やれやれ。
 僕は久しぶりに掃除をしようと思い、早めに店を閉めて取りかかりました。年末の大掃除並の掃除を何とか終わらせて、一息ついた時にはもう9時を回っていました。
 ふと、鍵のかかった扉をコンコン叩く人がいます。行って開けると、仕事帰りの渡部さんが立っていました。
「お疲れさん。もう店閉めるんだろ?俺も今日は長引く患者がいなかった。最近忙しくて、なかなか立ち寄れなかったんだ。どうだマスター。もし良かったら、ミレットに行こう」
「お疲れ様です。僕もちょうど今終わったところです。ミレットですか。いいですね」
「よし。決定だな。峰子も後から合流する事になってる」
「すぐ、用意して追いかけますから、お待ち頂くのも寒いので、どうか先に行っていて下さい」
「それはいいが、場所はわかるのか?」
「ええ。甥っ子が働いていますので」
「甥っ子?」
「はい。ミレットでバーテンダーをしているんです」
「そうか。なら大丈夫だな。じゃ、お先に」
「はい。すぐに伺います」
 渡部さんは闇のような真っ黒いコートで凍るような夜風を切って暗くて湿った路地裏を颯爽と歩いていき、間もなく闇の中に溶けるように見えなくなりました。
 店の中に入り、着替えをして電気を落とすと、小太郎が安心したように蓄音機の後ろから飛び出してきて、いつもの指定の位置に移動して行きました。それを見届けてOPENの札をひっくり返して、扉を閉めて鍵をかけました。外はたいへん真っ暗で、隣のバーの入り口に幾つか温かそうに灯る白っぽいランプで何とか行き先が見分けられる感じでした。うっそうと伸び放題の木のシルエットの間から、時々澄んだ美しい星空が覗きました。僕はそれを見上げながら白い息を吐いて、路地裏の砂利道を抜けて駅の方に向かいました。


 次の日、開店して4時間。さっぱりお客様がいらっしゃらないので、僕は暇に任せて昨夜甥っ子に教えてもらったハーモニカを吹いていました。何度やってもなかなか甥っ子の教えてくれたように演奏出来るようにはなれず、意地になって必死に吹き鳴らしていたのです。
「おーーーい。マスターーー いつになったら、俺のカフェオレは出てくんだーー?」
 もう懐かしいとさえ思ってしまうシゲさんの声で顔を上げると、いつの間にやらよく洗い込んだ風合いをした生成りのハンチング帽を小粋に被ったシゲさんと、ココアのような焦げ茶色のふんわりした長い髪が透けるような肌に寄り添う峰子さんが座って、いたずらっぽい表情を浮かべて僕を見ていました。
「あら、やっと気がついたわ」
 峰子さんがそのアーモンド型の目を細くして、おかしそうにピンクベージュ色の唇から白い歯を覗かせて篠笛の凛とした音のようにうふふと笑いました。今日は卵色のブラウスカットソーに品の良い珊瑚色のベストを重ねていらっしゃいます。いつもながら綺麗な色を選ぶ方です。
「申し訳ございません!すぐにご用意させて頂きます!」
 僕は慌てて取りかかった。シゲさんはホットカフェオレ。峰子さんはカフェバレンシア。気を落ち着けてお二人の珈琲を煎れてお出しすると、いつの間にか、窓際の席にカプチーノの彼女と旦那さんが座って談笑していました。僕が、これ又慌ててお詫びをしながらチェイサーを出しに行くと、こっくりした小豆色の揃いのセーターを着たお2人は揃ってにっこり笑って僕を見ました。
「こんにちはマスター。カプチーノを2つお願いします。このセーター、2人で編みっこしたんですよ。私のは彼が編んでくれて、彼のは私が編んだんです。どうですか?」
「そうなんですか!手作りなんて素晴しいじゃないですか。お二人ともよくお似合いですよ」
「良かった。ありがとう」
 そしてお二人は又向かい合って、面白そうに話の続きに戻っていきました。
 忙しさから解放されて、気が緩んでいるのだろうか? お二人のカプチーノを煎れながら僕はぼんやり思いました。それとも、対応しきれない忙しさで自然に身につけてしまった見て見ぬ振り、聞いて聞かない振りが残っているのだろうか? だとしたらいけない。お客様に失礼な事だ・・・
「それにしても昨夜は楽しかったわ。マスターの甥っ子のバーテンダー君も可愛かったし。今度はシゲさんも一緒に行きましょうよ。夫も喜ぶわ。ねぇ、マスター」
 峰子さんに僕は普通に返事をしたつもりなのですが、峰子さんは不思議そうに首を傾けました。
「どうしたのマスター。疲れてるの?」
 心配そうな目で見つめる峰子さんの横から、シゲさんが渋い顔をして首を振りながら言いました。
作品名:珈琲日和 その6 作家名:ぬゑ