じれったいのよ。
可愛い人だ、と浮かんだ笑みを黒岩はファイルの陰に隠す。
こちらの動きを気にしながら資料を探す雨池の、少し癖のある柔らかい髪に黒岩はそっと手を伸ばす。ひたり、とうなじの辺りを撫でると、雨池は文字通り飛び退いた。
黒岩は意地悪く笑ってみせる。
「な…!」
「取って食いやしませんよ」
「…取って食っただろ」
言い返すと、黒岩は一瞬目を見開いて、それから堪えきれずに笑い出した。
滅多に聞かないその笑い声に、雨池は拗ねたようにふい、とそっぽを向く。堪えようとして、何度も失敗するのを聞いているうちに、
「そんなに笑うな!」
つられるように笑ってしまった雨池が叫んだ。黒岩はすみません、と笑いながら答える。
なんだよ、そんなふうに笑えるんじゃないか。
言いかけた言葉を雨池は呑み込む。微笑程度に落ち着いた笑いを口元に浮かべる黒岩が、ひどく悲しい色をその目に浮かべているのを見たからだった。
「そこの、一番上の赤いファイル取ってくれるか」
「はい」
口元にだけ微笑みを残して、黒岩は手を伸ばす。
「どうぞ」
「ん」
ぱら、ぱら、とページをめくる雨池の横顔に、黒岩は吸い寄せられたように口づけた。逃げようとする薄い肩を捕まえる。
視線が絡んだ。
薄い焦茶の雨池の目には、噛み付くような反抗の色が浮かんでいる。黒岩はそっと微笑んで
「噛まないで下さいよ」
と、硬く結ばれた唇を舌先で舐める。細い顎に手をかけて仰向かせ、深いキスを迫ると、諦めたのかゆるゆると唇を開いた。
雨池が抱えたままのファイルを取り上げ、棚に押し込める。
「…ん…」
鼻にかかった甘い声を雨池は無意識に上げる。
一旦口づけから解放すると、急に我に返ったように自分を抱きすくめる黒岩から逃げようと藻掻く。黒岩は耳朶を軽く噛んで、腰に回した手に力を込めた。
「い…、いや、だ」
「…いや?」
かすれる声での抵抗を、低い声が笑う。大きな手が腰を掴んで、逃げられない。
換気のために黒岩が開けたらしい小窓から、救急車のサイレンが聞こえて、それだけが雨池を唯一現実に引き留める。
「や…」
ほぼ一週間、まるで素知らぬ顔で、上っ面だけの微笑しか見せなかったくせに、と雨池は俯いて唇を噛んだ。
優しくしたかと思えば、突き放す。
そんな事に気持ちを波立たされている事実が、自分が、雨池には許せない。
「雨池さん…」
全てを押し流すような声。
「馬鹿、こんな、とこで」
「ベッドの上ならいいんですか?」
「違…」
絡め取るような口づけをされてしまえば、そこまでだった。
押し退けようとしたはずの手は、いつの間にかその広い背中に回されて、甘くすがりついている。
黒岩は首筋に軽いキスを落とすと、ゆっくりひざまずく。
立ったままで舐められて、快楽への抵抗はゆるやかに甘受に変わってゆく。
「や…、黒、岩」
後ろに流すように撫で付けられた、やや長めの黒髪に指を絡める。芯を持った熱に長い指がまとわりついて、もてあそぶ。茎を根本から舐め上げた舌が先端を包むようにして、ほん一瞬、歯がかすめた。
「ひ、ぁ」
甘い声が、無機質な棚に吸い込まれる。
ひざまずいた黒岩は、右手を雨池の腰に回し、左手で震える膝の裏や腿を柔らかく撫でた。
「っ、だめ、だ、…こ、声が」
薄目を開けて見れば、形の良い唇から濡れた欲望がぬるりと吐き出された瞬間で、雨池は慌てて目を瞑った。
黒岩が小さく笑う。
「見ててもいいですよ」
からかう声で囁かれて、睨もうとした目には力が入らない。
甘い悲鳴を小さく上げて達した雨池は、黒岩がそれを飲み下すのを見て、慌てて目を反らす。
膝から力が抜けてずるずると床に座り込んだ雨池の髪を、黒岩の長い指が梳く。雨池はその手を掴むと、そっと唇を押し当てた。
黒岩はその仕草に、苦しそうな、悲しそうな顔をする。
しかし雨池は目を閉じたまま、その手を離そうとはしなかった。
*
それからは昼食時間に、そんな事が何度も繰り返された。
好きじゃない、と思うのに、決して嫌いにはなれない。
無感情な顔をするくせに、ほんの一瞬、その目に悲しそうな、寂しそうな色を浮かべる。それが、心から嫌いにはさせてくれない。
「───なあ、お前は、…いいのか?」
気怠くかすれたその問いかけに、黒岩はほんの一瞬、惚けた顔をした。雨池は上気した頬を更に紅く染めて、潤んだ目でなんとか黒岩を睨み付けようとする。
「な、なんとか言えよ。答えろ」
「……雨池さん、意味、わかって、言ってます?」
珍しくしどろもどろな黒岩を、雨池は鼻で笑う。
「馬鹿にしてんのか。ガキじゃねえんだ」
いつもの口調で言った雨池が、黒岩のベルトに手をかけて、わずかに躊躇を見せつつそこに唇を寄せる。
下着を押し上げる黒岩に、ふと浮かんだ疑問を口にする。
「お前、これ、いつもどうしてたんだよ」
雨池の動きを見つめていた黒岩が、う、と顔を強張らせた。
「…それは、その」
そうやって言葉に詰まって、見上げる雨池から目を反らす。なんとなく予想がついて、雨池は
「まあ、いいや」
と笑った。
急に、愛しくなる。
いつも取り澄ました仮面のような顔で微笑むのに、ひどく優しい。
口では酷い事を言いながら、本当に痛めつけるような事は絶対にしない。
大きな手が優しい仕草で髪を撫でる。雨池は薄く目を閉じて、熱くなっている黒岩自身に口づけた。
その瞬間、黒岩の手が雨池を勢い良くそこから引きはがした。
驚いて見上げる雨池に、黒岩は押し殺した声で言う。
「…やめましょう。時間が、無い」
その目には、様々な感情が浮かんで揺らめいている。
雨池は気圧されるようにうなずいた。
「あ、…ああ、時間…」
腕時計を見れば、確かに昼休みは終わりかけている。けれど、それだけでは無いというのを雨池は感じ取っていた。
黒岩はベルトを締め直して、いつもの無表情で少し乱れた前髪を掻き上げる。
突き放されたような気分になって、雨池は戸惑う。スーツの胸ポケットから眼鏡を取り出した黒岩の手を、思わずつかんだ。
甘苦い感情がじわりと喉の辺りに沸き上がる。
「───尚吾」
甘くせがむ声で雨池は黒岩の名前を口にした。
呼ばずにはいられなかった。
ただキスしてほしかった。
手触りの良い髪に指を突っ込んで、誘うように目を閉じる。
黒岩が苦しそうに、わずかに顔を歪めたのを、雨池は見ていない。
溺れている、と思う。
捕まってしまった。それでもいい、と雨池は思う。
黒岩はキスを待つ雨池にそっと顔を寄せ、触れる寸前で動きを止める。
それから、
「終わりにしましょう、雨池さん」
いつも優しいキスをした唇で、そう告げた。
雨池はゆっくりと瞼を上げて淡い焦茶の瞳を真っ直ぐに黒岩に向ける。黒岩は、静かに繰り返した。
「もう、終わりにしましょう」
胸が痛んだ。けれど、と黒岩は精一杯無表情に雨池を見つめ返す。
このまま雨池を、自分の欲望の犠牲にはできない。
認められず、排除されるのは自分だけでいい。
雨池は少しだけ視線をさまよわせて、小さく呟く。
「結局、遊びだったのか」