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じれったいのよ。

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 そしてやはり、いつものように月曜の朝は来る。
 人波に押されるように地下鉄を乗り換え、札幌で降りる。地上に上がると、いっそ嫌味なほど晴れた空と清々しい空気に、雨池は溜息を吐いた。足取りは、ひどく重たい。
 散々いいように鳴かされて、求めさせられて、次に目が覚めたのは日曜の昼間だった。
 隣で眠る黒岩を見て、雨池は自分が何をされたかを思い出し、まるで逃げるように部屋から飛び出して自宅に戻ったのだった。
 だるい。
 深く溜息を吐く。
 エレベーターを待っていると、後ろから肩を叩かれて雨池はびくりと振り向いた。
「おはよう、雨池くん」
 ホールに響く溌剌とした木村の声に気圧されながら、雨池はなんとか
「おはようございます」
 とだけ返した。
「なによ、元気ないわね。どうかしたの?」
 エレベーターに乗り込んで、事務部のフロアの数字を押す。
「いえ、…別に、なにも」
「黒岩くんにいたずらでもされたの?」
「───…木村さん」
「なあに」
「いたずらって」
「違うの?」
 めまいを感じて雨池はエレベーターの壁に寄りかかり、ぐったりと俯いた。木村は面白そうに片眉をひょいと上げて、笑みを浮かべる。
 上昇が止まりドアが開くと、雨池と一緒に木村まで降りた。
「…どうかしたんですか」
「二階分だもの。たまに階段使ってみようかな、なんて。あ、おはようございます、安達さん」
「あら木村さん、珍しい。おはようございます」
 すれ違う何人かに挨拶を繰り返す木村に、雨池はいい加減立ち止まって、切り出した。
「知ってたんですか、木村さん」
「黒岩くんの事なら、なんとなくね」
「どうして言ってくれなかったんです」
「どうして私が黒岩くんの事を言うのよ。恋愛は個人の自由でしょう。それとも何? 傷害で訴えるってなら弁護士探すの手伝う?」
「そうじゃなくて…」
 高いヒールの靴を履いている木村は、ほとんど変わらない身長の雨池を、まとう雰囲気だけで圧倒する。ぐっと上がった睫毛まで自分を威嚇しているように思えてくる。
「狙われてるから気を付けた方がいいわよ、なんてどうして私が言わなきゃならないの。それに、例えそう言っていたとしても、黒岩くんを諦めさせるなんて無理ね」
 早口で言うだけ言って、木村はフロアの隅にある階段へ向かう。雨池は追いかけるように隣に並んで、
「どういう意味です?」
 と聞き返した。木村は歩調を多少緩めて、声をしのばせる。
「蛇みたいな男よ。締め上げて、逃がさない」
 ぞく、と背筋に悪寒が走る。甘ったるい薄闇で囁かれた言葉を思い出す。
 ───優しくしますよ。
「そしてね、絶対、サソリ座よ」
 木村はそうオチをつけて、階段を登って行った。後に残された雨池は、うんざりと息を吐き、事務部へ向かって、来た道を戻った。
 短い朝礼をして、業務に入ったのが九時過ぎ。窓の外、目の前に広がる青空と丁度見えるJRタワーを睨んで、雨池はエクセルの画面を開こうとアイコンをクリックした。
 いつもはすぐに見慣れた画面が表示されるのに、今日に限っていつまで待っても影も形も現れない。雨池は苛々と何度もアイコンをクリックする。
「どうしたんですか? 雨池さん」
 ひどく険しい顔をしている雨池に、安達が声をかけた。雨池は短く、動かなくなった、と答える。
「あらら…エクセルですか? みんなは平気?」
 大丈夫です、と各所から声があがり、立ち上がった安達が
「システム部からどなたか呼んできます」
 と出て行った。
 データが色々入っているので、自宅の古いパソコンのようにコンセントを引っこ抜くという荒技に出るわけにもいかない。スタートバーさえ動かなくなったパソコンを殴りつけたい衝動を、雨池は必死で抑える。
「お邪魔します」
 戻ってきた安達に続いて現れたのは、黒岩だった。雨池は椅子にもたれかかって、絶望的な溜息を吐く。
「おはようございます」
 雨池のデスクの横に立って見下ろしながら、黒岩はいやに清潔な声で言った。眉間にいよいよ力が入る。
「…おはよう」
「それで、どうしたんです。見せて貰っていいですか」
 不意に身を屈めてパソコン画面を覗き込んだ黒岩から、雨池は思いきり身を退いた。椅子ごと動いた時に、スチールのデスクにすねをぶつける。
「い…っ」
 ぷ、と誰かが吹き出した。黒岩はほんのわずかに笑って、何事もなかったように
「ああ、…言う事聞きませんね」
 と呟いた。大きな手───長い指がキーボードの上を撫でるように動いて、それから、小さく溜息を一つ。
 その動きの一つ一つを雨池は凝視してしまう。
 長めの髪が幾筋か額に落ちるのを、構わずにマウスを動かす。横顔がひどく冷たい印象を与える、と雨池はパソコンと黒岩を交互に見ながら思っていた。
「強制終了も効かないから、最終手段しかないですかね。不安定なだけなので、起動し直していじっておきましょうか」
 薄くもなく厚くもない、形の良い唇が言う。
「…データには問題ないですね」
 あの指が、あの唇が、あの夜、触れた。
「……で、───雨池さん?」
 黒岩の声に、雨池は弾かれたように顔を上げた。今何を考えて、何を思い出していたか。愕然とする。
「ん?」
 慌てて出した声が見事にひっくり返った。
 いつもなら、「春だからってぼうっとしないで下さいよ」───などと言ってくるはずの黒岩は、ただ薄く笑って
「これで大丈夫です」
 それだけ言って、安達達とほんの二言三言言葉を交わして去る。
 雨池は椅子を戻してパソコンと向き合うと、今度はちゃんと表示されたエクセルの画面をみつめて、薄い唇を噛んだ。

  *

 顔をあわせても、誰にでも向ける微笑みを見せるだけ。
 じらされているのか、それとも、あの夜の事はただの遊びだったのか。
 雨池は黒岩を見かけるたびに、意地のように睨み付ける。黒岩はそんな雨池に、あくまでよそよそしい姿勢を崩さない。
 そんな調子で数日が過ぎた。
 それは、夏も近いな、と感じさせる、よく晴れた日だった。書類作成のための資料を取りに行く、と雨池は事務部を出た。
 資料室とは名ばかりの雑品部屋は、一階下のフロアにある。階段を下りながら、雨池は何度目か数え切れない溜息を吐いた。
 まさぐった黒髪の感触が、まだ指先に残っているような気がする。
 夜になると、赤い痕が今もくっきり残る足の付け根から、与えられた熱が全身に広がるようで。
 まるで、と雨池は眉を寄せる。
 まるで自分は、黒岩を好きみたいだ。
 そんな考えが浮かぶたび胸の辺りに熱が凝るようで、雨池は慌ててそれを否定する。きっと、少しばかり刺激が強すぎただけだ。
 入口のリーダーに社員証を当てて、ドアを開ける。資料室には先客がいた。見覚えのある、青みがかった黒スーツの後ろ姿。
 黒岩だった。
「───雨池さん」
 回れ右をしかけて、雨池はぐっと堪える。分厚いファイルを高い棚から出し入れしている黒岩の横に、素知らぬ顔で並ぶ。
 横顔をうかがう。
「上のファイル、取りましょうか?」
 ぱらぱらと中身を見ながらそう声をかけた黒岩に、雨池は一瞬びくりと肩を震わせる。いや、いい、と強張った声が答えた。
作品名:じれったいのよ。 作家名:鈴木さら