じれったいのよ。
固く結ばれた雨池の薄い唇を、濡れた舌先がゆっくりなぞる。顔を背けようとしたが、大きな手で顎を掴まれて、それすら許されない。
ベッドの軋む音が耳を刺す。
「───強情なひとだ」
雨池の耳元で、少し笑っているような声で黒岩が囁いた。
「そんなに怯えなくても、優しくしますよ」
会社や人前では決して出さない、支配者の声で男は笑う。
壁に押し付けられた背中に、ぞっと冷たいものが走る。雨池は、この一年で多少なりとも築き上げていた、黒岩に対する信頼や、友情が、脆く崩れ去る音を聞いた気がした。
コールセンターの補佐をしていた時期には、パソコンの専門的な事や、スタッフの事で何度も助けられた。
事務に回った後も、廊下ですれ違えば立ち止まって短い会話を交わした。
頼んだ仕事は完璧に片付けてくれた。残業していると、差し入れを持ってふらりと現れた。
信頼、していた。
友達のような間柄だと、思っていた。
ぎこちなくても、そっけなくても、黒岩はいつも、雨池に優しかった。
指先が冷える。
絶望にでも、恐怖にでもなく、怒りに。
「───そんなに、俺が好きか」
低く押し殺した声が静かな部屋に響いた。
黒岩が、わずかに雨池から離れる。
「俺が好きか」
挑むような視線に、黒岩は目を細めた。薄暗い部屋の中にほんのわずかに差し込む光を、その瞳は受けている。元々淡い焦げ茶色の雨池の目は、光を受けて濃い琥珀色に輝くようだ。
「…どうして裏切るんだ」
薄い唇がわななくのを、黒岩は見た。
「俺が好きなら、どうして、こんな…」
全てを壊してしまった事を、黒岩はわかっていた。無表情に見つめる先で、雨池は俯いて、諸々の感情を込めた溜息を吐く。
「雨池さん」
俯いていた雨池は、その声にのろのろと視線を上げた。ひどく冷たい光が、黒岩の目に浮かんでいる。
「俺の感情と、あなたの考える俺の感情には、だいぶ開きがあるようだ」
黒岩が吐いた言葉に、雨池はただ呆然とその整った顔を見つめた。
視線の先で、黒岩はぞっとするような笑みを浮かべて雨池を見下ろす。
「あなたが俺をどう思っているかなんて、俺には関係のない事だ。
信頼していた? 裏切りだって?」
黒岩は笑った。
「いくら嫌われても、俺は、あなたが欲しい。そこに、信頼や、友情や、───そんなものを、求めるんですか?」
俺はただあなたが好きで、あなたを支配したいだけですよ。
そう続けた黒岩の声を、雨池は全く聞いていなかった。
聞く余裕も、なかった。目の前がいやに暗い、とだけ感じる。
ベッドに沈み込むような人の重みに、雨池はいやだ、やめろ、とわめいた。自分を覆おうとするそれを何度も何度も押し返しては失敗する。
滅茶苦茶に暴れる雨池の手を、大きな手が一括りに捕まえて、爪を立てる程強く握る。
「優しくしてあげるって、言ってるでしょう」
抵抗を吐き続ける唇を、薄く笑みを浮かべる黒岩の唇がふさぐ。顎を押さえられてしまっては、侵入してくる舌を噛む事さえ出来ない。
ざらり、と上顎を舐められて、雨池はびくりと身体を震わせた。
きつく吸われ、甘噛みされ、弄ぶように絡みつく。
その、暴力に近い口付けは、一年間、肉体的な快楽を忘れていた身体に、麻薬のように染み込んでいった。与えられる熱と、身体の内側からわきあがる熱が意識を朦朧とさせる。呼吸さえままならない。
一つにまとめられていた雨池の手から、徐々に力が抜けた。黒岩はゆっくりと手を離して、熱の凝る肌に指先を滑らせる。
力無く投げ出された雨池の手は、それでも時折弱々しい抵抗を見せた。苦しい、と言うように、黒岩の服を掴んで引き離そうとする。
お互い、呼吸はすっかり上がっている。微かな抵抗を見せていた手は、いつの間にか、まるですがりつくように黒岩の背中に回されていた。
舌を引っ込めようとすると、無意識に追ってくるのに少し笑って、黒岩は長い長いキスを終わらせた。ほぼ酸欠状態の雨池は、喘ぐように息を吸い、吐く。
雨池の薄く開いた目のふちに涙が滲んでいるのに、柔らかく唇で触れて、なだめるようにキスを降らせる。
頬、喉、胸…と落ちていく口づけに、雨池は黒岩の背中に回した指先にわずかに力を込めた。
唇だけが、いやだ、と最後の抵抗をみせる。
ついさっきひどく冷たい目をしたくせに、その愛撫は不思議なほど優しい。
膨れた胸の飾りを指先がやわやわと摘み、震える脇腹に、神聖なものに触れるような優しいキスを繰り返す。
「っ…」
雨池は唇を噛んできつく目を閉じ、何度も何度も快感の波を耐える。
黒岩の手が、ベルトを緩めて、ボタンを外す。
「や…、いやだ、……やめ」
わずかに反応しかかっていた性器にまで、じれったいような口づけをして、黒岩は静かに笑った。
「ふるえてる」
「ばか、喋るな…っ」
響く声が全身に染みる。ざわざわと、細かい波が立つように、自分ではどうしようもない感覚が広がる。
あらがえない、とわかる。
欲望の中心を生温い口腔に包まれて、雨池はあげかけた甘い声を手で覆って堪えた。
黒岩の愛撫は一瞬のためらいも見せない。舐め上げ、吸い、甘噛む。
震える内腿に痛いほどのキスをされて、唇をかみ締めた。
「雨池さん…」
苦しそうな少し掠れた声で雨池を呼び、黒岩は体を起こした。ボタンを外すのももどかしそうに、上衣を脱ぐ。
起き上がったせいでシーツの上に落ちた雨池の手を掴んで、自分の肩に引き寄せる。体温低そう、と雨池が思っていた男は、こんな時にも少しだけひんやりとしている。
自分を見下ろす視線に、雨池は身体の内側から震えるような錯覚をおぼえた。その目は、いつも見ていた優しい穏やかな色をすっかり失って、刺すように冷たく、同時に焼け付くように熱い。
は、と吐いた息が閉め切られた部屋に響く。
「…もう、抵抗しないの」
笑っている声で黒岩が囁いた。雨池は荒れた呼吸の合間に、余裕を浮かべて笑い返してやる。
「ここまで、きてか?」
開き直れば、黒岩が困ったように微笑む。深い黒の目に、後悔しているような色を見付けて、雨池は続ける。
「お前こそ、やめるなら、…今の内だ」
まさか、と笑って唇だけで答え、黒岩は雨池の薄い胸に顔を寄せた。小さな尖りを舌先と歯でいじりながら、先走りに滑る熱を扱く。
喉の奥で甘いうめきを上げた雨池は、黒岩の乱れた髪を逆撫でて更に乱すように指でまさぐる。
まるで、心が一つになるような、錯覚。
そこに、愛があるような気分になるのがおかしくて、雨池は自嘲じみた笑みを浮かべる。
余裕ですね、と黒岩が少しだけ笑った。
「俺は、余裕なんて無いのに」
膨れあがった熱を握り込んだ手が一旦離れて、硬くなった黒岩自身を、着替えずに眠ったスーツのパンツから引きずり出した。
その光景に、腰が引けた雨池に黒岩は小さく笑う。
「無理矢理突っ込んだりしませんよ。言ったでしょう。
───優しくするって」
腰を近付けて、二つの性器を擦りあわせる。
「あ…っ」
熱い、と感じる。無意識に身体が逃げようとするのを押さえられて、貪るようなキスを受ける。
一緒くたに握り込まれた互いの熱が、ただそこで溶け合う。