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Pianissimo Passo

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あの日のことは正直よく覚えていない。異様に頬が熱くなっていたことと、怪訝そうに見つめる荻原の表情だけが太一の脳裏に焼き付いていた。

これまでどことなく気まずさから目を逸らしがちだったが、長い前髪に隠れた荻原の瞳は太一が見てきたこれまでのどんな人間よりも綺麗だった。芸術家はみんなそうなのだろうかと思わずにはいられないほど、見つめていればその色に引き込まれてしまう。そんな感覚は初めてだった。

(男相手に何やってんだ…)

女性に見惚れることはあれども男に目を奪われるだなんて、太一の常識の範疇を遙かに超えていた。相談しようにも誰にすればいいのか皆目見当もつかない。いっそ忘れてしまえばいいのだが、荻原のあの時の表情だけがいやに思い出されて仕方がなかった。

身の入らない動作で水に浸した雑巾を絞る。ぐるぐると考え込んだままため息を吐くと、後ろからばしりと後頭部を叩かれた。

「っ!?」
「太一、さぼってんじゃないだろうな」

鋭い眼光で太一を見下ろしていたのは、先ほどまで厳しい声をあげて指導を行っていた師範だった。稽古後のため雰囲気は和らいではいるものの、威圧するような眼光はそのままだ。思わず委縮して黙り込んでいると呆れるように全くと呟く小さな声が聞こえた。

「…稽古に影響が出ないようにな」

優しく頭を再度叩かれ、師範は他の教え子の元に歩いていった。その背中を見つめて、太一はもう一度ため息を吐く。幼いころからお世話になっているためか、太一が何かに悩んでいることはお見通しだったようだ。稽古に影響が出ていないだけ幸いだと言えようか。それでもまだ自分自身の感情をうまくコントロールできないでいることに多少なりとも太一は苛立ちを覚えた。

「まだまだだな…」

きつく絞った雑巾を床に押し付け迷いを吹っ切るように床を蹴る。磨いた道に残る自分の足跡がゆっくりと形を失くしていった。もやもやしていた気持ちもこんな風に消えればいい、そんな風に願いながら。

*****

「あ…」
「稽古帰り?お疲れさん」

稽古が終り何となく気持ちが晴れないままのろのろと帰路についていると、十字路に差し掛かったところで荻原と顔を合わせた。会いたくない人に会ってしまった。どうやら顔に出ていたようで笑顔だった荻原の表情もどこか不機嫌そうに歪んだ。

「なんだぁ?そんな不満そうな顔すんなよ」
「す、すいません…そんなつもりは……なかったんですけど」

否定はして見るものの歯切れの悪い太一の様子に荻原の眉が顰められる。前髪の奥の瞳はどんな色をしているのだろうか。またそんなことを考えてしまい太一は自己嫌悪に陥った。ただ挨拶を交わすだけなのにこんなにも動揺している自分が信じられない。ああもうと心の中で呟きながら髪の毛を掻き毟った。

そんな太一の様子に相変わらず眉間に皺を寄せながらも荻原はその場から立ち去らなかった。それが余計に苦しく感じて太一は徐々に視線を地面に吸い寄せられていった。

「おいおい、そんな落ち込まなくてもいいだろ」

呆れるような声が胸に突き刺さる。荻原が悪いんじゃない。けれども声が出てこなかった。何を話せばいいのか、どうすればいいのか全く分からない。これまでどのようにして荻原と顔を合わせていたのかも思い出せない。そう考えれば考えるほど思考は絡み合う糸のように混乱していった。

ぐるぐると目の前が歪んでいく。そのまま倒れ込んでしまいそうだと思ったそのとき、乱暴に頭を撫でられた。何事かを思い切り顔を上げると、太一の頭を撫でていたであろう右手を引っ込めて優しげに笑う荻原の顔がそこにあった。

「お、やっと顔上げたな」
「あ…」
「何があったか知らねぇけど、人と話すときはちゃんと顔見て話せよ」
「顔を…見て…」
「そーそー」

言われるがまま荻原の顔を見つめる。太一が惹きつけられて仕方ないその瞳には太一自身の姿が映り込んでいた。ああ、俺だななんてことをぼんやり考えた瞬間、体中の血がざわついた。荻原の瞳に佇んでいる自分の顔が徐々に赤く染まっていく。それに気づけば一層頬の赤みが増していった。

なんでこんなに気になるんだ。
なんでこんなに胸が苦しいんだ。
なんで、こんなに―

「太一くん?」

荻原の声が太一の名を紡ぐ。それだけで体温が上昇した。

(これじゃあまるで…)

脳裏に浮かんだ二文字を掻き消すように勢いよく首を左右に振る。突然の太一の行動に荻原が目を丸くしたが、今の太一にそれを気遣う余裕など微塵もなかった。ただ浮かんできた言葉が信じられなくて衝動のまま動く。ようやく動きを止めた頃には呼吸が荒くなっていた。

「…大丈夫か?」
「……はい」

すいません、と今日二度目の謝罪を口にすると荻原は笑って変な奴だなと呟く。ははと乾いた笑いを漏らした太一の顔を見るなり、荻原は帰るぞと背中を向ける。その背中を追うようにして太一もまた歩を進めた。

掻き消そうともすぐに蘇る。
胸の苦しみはそのままに、生まれたばかりの二文字の言葉は太一の中に確かに刻まれていた。

作品名:Pianissimo Passo 作家名:高埜