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Pianissimo Passo

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冬も半ばを過ぎたこの時期の雨は、冷たい矢が降るようにアスファルトを叩きつける。寒い空気を一層凍えさせた。こんな日の道場はひどく寒い。普段太一は稽古を敬遠することはないが、さすがにこの寒さでは今日が稽古の日でなかったことを喜ぶ他なかった。はあと息を吐き出せば乳白色に変わって宙に消えていく。雨が雪に変わるものそう時間がかからないなと太一は足早に帰路を進んでいった。

あの日から荻原とは顔を合わせていない。会ったときにどんな顔をすればいいのか全く分からなかった。否、自分の表情がどのように変わるのか、それを見た荻原がどう思うかを考えると自然と顔を合わせそうな時間帯を避けるようになっていた。

顔を合わせていないというのに、自覚した感情は日に日に存在感を増していた。相手は男で太一も男で、こんな感情は異常だと太一本人も理解している。けれど、知りたいと願う欲求はとどまることを知らない。微かに聞こえるピアノの音にすら反応をしてしまう自分にため息を漏らすばかりだ。

(何なんだよ…ちくしょう)

大きなため息は冷たい空気に変わって太一の頬を撫でた。ぶるりと肩が震える。マフラーに顔を埋めるようにして早足のスピードをさらに上げた。歩くたびにぱしゃん、とアスファルトに溜まった水が跳ね上がりズボンの裾を濡らす。じわりと侵食していくそれはまるで荻原へ向かっていく太一自身の感情のようだ。

足早に、けれどどこか重い足取りで進んでいると荻原の家が目に入った。ここまでくればもう自宅は近い。俯きがちに通り過ぎようとすると、突然足元に何かが飛び出してきた。

「う、わっ…!」

寸でのところでそれを飛び越え顔を上げ振り返ると、悪戯そうに笑いながら左足を前に差し出した荻原の姿がそこにあった。

「さすがに反射神経は良いな」
「…どうも」

真正面から見ることができずに顔を背ける。態度の悪い様子に荻原は腹を立てるだろうか。それでも派手に鳴り響く鼓動を抑えつけるためには致し方ない。

「何か久しぶりだな」
「……そうですか?」
「稽古帰りに会って以来だからな。1ヶ月近いんじゃねぇの?」
「…そうですか」

気まずさから口から出る言葉は全て素っ気ないものばかりだ。けれど荻原はこの場から去ろうとはしない。太一の気のない返答も気にせず、学校の様子や道場のことなど大して意味のないような質問を繰り返すばかりだ。今すぐこの場から逃げてしまいたい。そう思えば思うほど地に根を張ったように足が動かなかった。

抱いた感情が歓迎されるものではないと太一にも分かっている。悟られたら最後、きっと荻原は太一の前には二度と現れないだろう。そうなったとき、瞬間に見せであろう拒絶の色を考えただけでも背筋が凍った。

逃げてしまいたい、でもそれができない。
荻原に焦がれる太一の本能がそうさせているのだろうか。

「…相変わらずぼんやりしてるやつだな」

何も言わずに立ち尽くす太一の姿に抑揚のない声音で荻原が呟いた。すいません、と消えるような声で返せば大きなため息が聞こえた。さすがの荻原も呆れたのだろう、と自嘲気味に笑った。

すると瞬間、上から頭を掴まれたような衝撃に襲われた。この前太一の髪に触れた優しい指ではない。大きく掌を広げて叩くようにして頭を抑えつけられた。上からの圧力に抗うこともできずそのまま10数センチ視界が下がり、持っていたはずの傘が地面にぱしゃりと音を立てて落下した。

「そんなんじゃ試合にも勝てねえんじゃねえの?」

太一の頭を抑えつけたまま、今度はどこか楽しそうな様子の荻原の声が聞こえる。濡れた前髪の隙間から見上げると意地悪そうに微笑む荻原と視線が交差した。どこか挑発的な荻原の表情に、ぐっと奥歯を噛みしめて小さく息を吸う。唇の隙間から入り込んだ雫は、雨の味がした。

「…試合は別ですから」
「へーえ?」
「竹刀を持つ時間は特別です。…荻原さんだってピアノを弾く時は特別なんじゃないんですか」

抑えつけられていた荻原の掌を払うようにして雨の雫を振り払う。拾い上げようと手を伸ばしたた傘の内側には、すでに小さな水たまりが落ちてくる雫を受け止めていた。

「俺とお前のとではたぶん、違うな」
「…え?」
「引きとめて悪かったな。風邪引く前に帰んな」

ひらひらと長い指が揺れる。あ、と視線で追いかけた時にはすでに遅く、表情を隠すようにして荻原は太一の前から去っていった。ばたりと重々しい音を立てて閉ざされた扉は、まるで初めて出会ったときのように沈黙していた。

「…なん、だよ」

めまぐるしい感情の濁流に飲み込まれそうになりながら太一はやっと言葉を吐いた。ただ太一が自分勝手に混乱して荻原の仕草や言葉ひとつひとつに振り回されていただけなのかもしれない。否、ほとんどが太一が地震の感情を制御できずにぐるぐるとドツボにはまっていただけだ。荻原がこうしていなくなったのも致し方ない。だが、言葉に表せないほどの喪失感はどうすればいいのだろう。

ざああと大きな音を立てて雨脚が強まっていく。
冷たい雨に濡れながら太一はしばらく呆然とそこに立ち尽くしていた。
作品名:Pianissimo Passo 作家名:高埜