小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

Pianissimo Passo

INDEX|6ページ/8ページ|

次のページ前のページ
 


よくわからないというのは厄介だ。何を考えているかはもちろん、その人自身のことも太一は名前以外の何も知らない。居心地悪げそうに身体を縮ませてソファに腰を下ろしていると、くすくすと笑い声が聞こえた。笑い声のする方向に視線を移せば、穏やかな笑みを浮かべながら荻原が太一にコーヒーを差し出している。どうも、なんて素っ気無い言葉しか出なかったがそれでも荻原は笑顔のままだった。

(何でこんなことになったんだ…?)

差し出されたコーヒーを一口含みながら太一は記憶の糸を辿る。家を出てからの道のりを脳内で必死に追いかけて今日一日の足取りを思い返す。荻原と顔を合わせたのは確か、駅前の本屋だったと思い出した。

*****

「あれ?太一くん?」

母から頼まれた買い物も終わり、まっすぐ家に帰るのもつまらないと足を運んだ本屋で太一は聞き覚えのある声に呼び止められた。振り返れば予想通り荻原が小さく手を振るようにして太一を見つめていた。相変わらず長い前髪から覗く瞳に思わずどきりとする。

「あ、えっと…荻原さん」
「誠だって言ったろ?」
「…すいません」
「謝るなって。今日はおつかい?」

片手に下げられたスーパーのビニール袋に荻原の視線が移る。買い物袋を片手に雑誌を読む姿が珍しいのだろうか。いやにじろじろと見られているような気がした。

「今日剣道は?」
「休みです」

簡潔に告げると、荻原はふーんと少し考え込むように呟いた。何を考えているのかさっぱり読み取れない。それはきっと太一が荻原のことをほとんど知らないことも関係しているのだろう。相手のことを知れば自ずとその人となりや考えていることがわかるようになる。

(…俺は、この人のことを知りたいと思ってるんだろうか)

以前から荻原のことを思い返す度にちりちりと何かが太一の中でざわついていたことは事実だ。本能が危険だと告げているのかもしれない。ただ知りたいという欲求が声を上げているだけなのかもしれない。ただ、胸がざわつくことだけが太一が知りうる事実だった。

何を考えているんだと心の中で自分を笑い、太一は読んでいた雑誌を元の位置に戻した。荻原はまだ何かを考えているようで腕を組みながら小さく唸っている。何を考えているかは全く分からないが、嫌な予感がした。今のうちに退散してしまえばいいのだが、何となくこの出会いを無駄にしたくないような気もする。嗚呼、本当に何を考えているんだろう。思わずため息を吐くと、そうだと何かを思いついたように荻原が告げた。

「そんじゃ」

覗き込むようにして眼前に現れた荻原の顔にどきりとする。いつもは前髪で隠れがちの瞳がじっと太一を見つめていた。それを意識するだけで鼓動が速まっていくような感覚に陥る。太一は思わずビニール袋を持つ手の力を強めた。

「俺んち来ないか?」

*****

そうして太一は半ば強制的に連れてこられた荻原邸で視線を泳がせながらソファに座っている。うちのソファよりも柔らかいななんて呑気に考える余裕もなく、ただ自身が置かれている状況に混乱するだけだ。普段はあまり飲まないコーヒーを逃げ場にして太一は口を閉ざした。

考えてみれば誘いを受けた段階で断ることもできた。それなのに一旦帰宅して頼まれたものを母に渡し、わざわざ訪ねてしまったのは何故だろうか。

「何考えてんだ?」

思考を停止させるように降りかかった言葉にはっとなる。コーヒーカップを持ったまま黙り込んでいる太一の目の前にはどこか目を惹きつけるような笑みはそのままに、荻原がいつの間にか腰を下ろしていた。すらりと伸びた指がつい、とマグカップを拾い上げる。太一に出された花が散っている高級そうなお客様用のカップとは違い、黒のマグカップが妙に似合っていた。

「おーい」
「あ、え、や、特に…」

慌てて口にした言葉はなんの面白みもないものだったが、それでも荻原はふっと笑みを零す。太一は余計に頭が混乱しそうになった。

「特にってことはないだろ」
「え、えと、あの、なんで俺を…?」
「あぁ、そのことか。この前そこにいたろ?」

ついと荻原が指差す方向は外の様子が微かに窺える大きな窓だった。その手前には立派なグランドピアノが置かれており、先日太一が音に惹かれて立ち尽くしていた場所だと理解する。素直に頷くと荻原が満足そうに笑った。

「だから」
「だからって…それが理由、ですか?」
「悪いか?」

意地悪な質問だと思う。ここではいそうですなんて言えるわけがない。勢いよく首を横に振ると一瞬目を丸くした荻原だったがすぐに先ほどまでの笑顔に変わった。

「取って食ったりしないし、そんなびくびくしなくていいぞ」
「食っ…」
「ばっか、物の例えだっての」

笑いを噛み殺すように肩を震わせる荻原の様子は、どう見ても太一をからかっているようにしか思えない。初めて荻原を見た時の愛想のなさはどこへやら。さっきから荻原は笑ってばかりだ。馬鹿にされているんだろうか。それに加えて見た目のイメージに反して思っていたよりも荒っぽい口調は、腹の底がむずむずするようなおかしな感覚に陥る。

ちらりと視線を送ってみればどうしたと訪ねるように荻原の瞳が太一を見つめた。前髪越しに覗き込んだ瞳は深く、それでいて透き通っている。少し無邪気な色を孕んだそれは心臓を驚かせるのに十分なものだった。

「は…」

思わず息を吐く。脳天からつま先まで響くように心臓が鳴り響いていた。
大丈夫かなんて声がどこか遠くから聞こえたような気がする。

頬に一気に集中した熱が何を意味するのか、求める答えはもうすぐ近くまできていた。

作品名:Pianissimo Passo 作家名:高埜