Pianissimo Passo
「なぁ、太一」
「…何?」
「これ見てみ」
食べ終えた弁当箱を片付けていると、前の席に座って同じように弁当を食べていた戸倉がにやにやと君の悪い笑みを浮かべて携帯を差し出してきた。嫌な予感が胸をよぎりながらも太一は差し出された携帯のディスプレイを覗き込む。すると、妙に幸せそうなカップルの画像が視界に飛び込んできた。
「かわいいだろー?幸せそうだろー?」
「自慢かよ!」
「や、だから、お前もいい加減彼女作れって」
また始まったと太一はそっとため息を吐いた。小学校からの腐れ縁の戸倉は最近彼女ができてからというもの、こうして幸せを見せびらかしては彼女を作れとせっつくのだった。特に好いている相手もいないしと言ってみたが、それでは寂しいだろうと鼻息荒く言われ、あまりの剣幕に言葉を失ったこともある。
別にいいと携帯ごと押し返す。不満そうに眉を顰めて戸倉は大げさにため息を吐いた。何なんだよとこっそり肩を落として、何だよと問う。すると戸倉は別の写真を携帯に写して再度太一に突き出した。そこには戸倉の恋人ではない女の子が表示されていた。
「は?誰これ」
「彼女の友達」
「何でお前がこの子の写メ持ってんだよ」
「彼女からもらった」
「何でまた」
「お前のこと気になってるって言うからもらったんだよ!」
がっくりと肩を落とす戸倉に大げさなやつだなと笑うと、ものすごい目付きで睨まれた。そんなにたいしたことじゃないだろうと思うが、戸倉にとっては違うらしい。他人事のようにへーと頷いて見せると、べしりと頭を叩かれた。
「おまっ、光栄に思えって!ほら、可愛いとかきれいとか好みだとかねーの!?」
「可愛いとは思うけどさ…」
「じゃ、一回くらい会ってみねぇ?」
「悪いけど、稽古あっから」
「なんだよー!」
彼女に合わす顔がないと言わんばかりの戸倉の反応に悪いと思いながらも、顔もあわせたことのない人間に会うよりも稽古に時間を費やしたほうが太一にとって何倍も有益なものだった。そういえばと、太一は前の彼女にも剣道に構ってばかりで愛想を付かされたんだったなと思い出す。小中学生のころとは違い、高校生では身体の出来が違うのだ。
以前よりも稽古に集中することができるため、太一はどんどん剣道にのめりこんでいった。好きこそ物の上手なれとはよく言ったものだ。稽古に夢中になるにつれ師範から褒められる回数も増えた。それがまた稽古熱心に拍車をかけている。そのおかげで成績が芳しくない方向に進んだことは言うまでもない。
「ほんっとお前、剣道好きだよなー」
「それしかないからな」
「確かに」
「っておい!」
先ほどまでの不機嫌はどこへ行ったのか、からからと笑う戸倉に釣られて太一も笑う。わかりやすい反応を見せる戸倉の表情は、いっそ気持ちのいいものだった。何を思っているのか手に取るようにわかる。言葉は悪いが戸倉はまさしく単純馬鹿だと言えるだろう。
(よくわかんない人もいるけど…)
ふ、と太一は知り合ったばかりの人物の顔を思い返した。穏やかに笑っているように見えて胸がざわつくような底知れぬ何かを感じさせられる。長い前髪の奥に潜む瞳は何を映しているのだろうか。知りたいようで知りたくない。太一はまた胸がざわついていくのを感じた。
ピアノの音色は素人の太一からしてみても素晴らしいものだった。思わず足を止めてしまうほど、美しい音。また今度と言われたが、果たしてそんな日が訪れることがあるのだろうか。
「あ、やべ次移動じゃね?」
戸倉の呟きではっと我に返る。教壇の上に掛けられている時計を見れば、昼休みがあと僅かだと告げていた。慌しく弁当箱をしまいこみ、戸倉に促されるまま授業の準備を済ませた。
「太一、急げ!」
「わかってる!」
いつの間にか胸のざわめきは収まり、同時に脳裏に浮かんだ荻原の表情も静かに消えていった。
けれど確かに、太一の中に何かを残していた。
息を潜めて気づかれることなく、徐々に大きさを増すように―
作品名:Pianissimo Passo 作家名:高埜