Pianissimo Passo
その日は珍しく何の用事もなく太一はだらだらと一日を過ごしていた。今日は師範が留守とのことで道場も開いていないのだ。こうして突然できた休日をどうやって過ごせばいいのか正直わからない。剣道以外に何の特技も趣味もないのだ。つまらない人間だとも思う。けれど周囲にそれを言われたことがない。だからこそ嫌だとも感じることはないのだろう。
「…暇だ……」
ごろりとベッドの上で寝返りを打ちぼそりと呟く。友人にメールしてみたが、運悪く部活だったりデートだったりで捕まらなかった。きっとこのままだらだらしていれば母の買い物に付き合わされてしまうだろう。スーパーの買い物くらいならばひとりで行くと言えるのだがそうもいかない。普段家にいない息子がいるのだから、これ幸いと連れ回すのが目に見えている。
がばっと起き上がりクローゼットからジャケットを取り出す。慌ててそれを羽織り、とりあえず家を出ようと太一は階段を駆け降りた。
「あら、太一?おでかけ?」
うるさく響く階段を下りる音に母がひょっこり顔を見せた。スニーカーを履こうと座っていた太一の背中に投げかけられた言葉に、思わずぎくりと体を強張らせる。何とか逃れたいとそればかり考えていた。
「…約束、忘れてたから」
「それは大変じゃない。早く行ってらっしゃいな」
「いってきます」
嘘も方便とはよく言ったものだ。表情を見られなかったことが幸いしたのだろう。思った以上に母は簡単に太一の言葉を信じた。嘘を吐くことに少なからず胸が痛んだが、追求されるわけにもいかず玄関を抜け出した。
「…どうすっかな」
ばたりと閉まったドアを背にしてしばし考える。出かけるにしても特に目的はない。しばらく考えた後、太一はとりあえず駅前に向かおうと足を踏み出した。キィと音を立てて門を開くと、不意にどこからか別の音が聞こえた。まるでハーメルンの笛の音に引き寄せられる子供のように、太一はふらりと音の聞こえる方向へ足を進めていた。童話のように恐ろしいものではなく、繊細で美しく、太一の持ちうる言葉では表せないような音色だった。音色は思った以上に遠くなく、むしろ近いところから響いている。一番大きく聞こえる場所で太一は足を止めた。
「…ここって」
表札に目を向けると、そこには【荻原】とアルファベットで記載されている。ピアノ教室を開いているのだから音が聞こえて当たり前なのだが、幼い子供たちが弾くにしてはあまりに見事な演奏だ。
誰が弾いているのだろう。昔見かけたことのある、荻原さんちのおばさんだろうか。太一の母とは違い、記憶の中の彼女は穏やかな笑みを浮かべていた。しばらくそんなことを考えながら音色を聴いていると、不意に音が止み次の瞬間閉じられていた遮光カーテンが勢い良く開かれた。
「っ!」
別段悪いことをしてはいないが、他人の家の前でじっと立っていれば誰だって怪しむだろう。ガラッと窓が開け放たれた音でようやく太一は自分自身の行動を思い返してかっと頬が熱くなるのを感じた。
「す、すいません…!」
「…誰かと思えば」
反射的に頭を下げると太一に降りかかってきた音色の持ち主は、想像していた声とは違っていた。ごく最近耳にしたような気がする。必死に記憶の糸を手繰ると、思い当たる人物が浮かび上がってきた。顔を上げると太一が想像していた人物が、穏やかに微笑んでこちらを見つめていた。
「荻原、さん」
「誠でいいよ」
堅苦しいの苦手なんだと笑う表情は、彼の母親のそれと重なる。親子なんだから当たり前かと胸の中で呟くが、自分自身がそれに当てはまっているかは定かではない。
「ええと、何度か会った気がするんだけど」
「あ、何度か会ってます」
「名前聞いてもいいか?どうも覚えてないみたいで」
「…添嶋です」
太一が名字を口にするとそうじゃないと言わんばかりに荻原が首を横に振った。
「名前のほうだよ」
「……太一、です」
「太一、ね」
荻原に名前を呼ばれた瞬間、どくりと心臓が大きく脈を打った。それまでは鳴りを潜めていた胸のざわつきが、堰を切ったように一気に噴き出す。奇妙な感覚に襲われ、太一は思わずぐっと拳を握った。握り締めた指先がひどく冷たい。
「それで、太一くん。うちに何か用?」
「え、あ…」
じっと家を見つめていたのが気になったのだろう。誠の表情からは特に感情を読み取ることはできなかったが、部屋の奥に見えるピアノは突然止められた演奏の続きを求めているかのように思えた。
「いえ、別に…」
「そうなの?」
「…すいません、お邪魔して」
「平気平気。ちょっと疲れてたところだしな」
「でも、ピアノ…」
奥のピアノに視線を移すと、荻原は合点がいったというようにああと呟いた。その声が何となく寂しげに聞こえたのは気のせいだろうか。
「…聞いてく?」
「……え?」
「ピアノ、聞いてたんだろ?」
俺は構わないよと軽く告げる荻原を見つめる自分の顔はきっとぽかんと口を開けて情けない表情をしているのだろう。太一の顔を見た瞬間、荻原がふっと笑ったのを太一は見逃さなかった。
「え、えと、あの、これから駅前に行くので…」
「そっか。じゃあまた今度な」
「…じゃあ、失礼します。ほんとすいませんでした」
勢いよく頭を下げて太一はその場から去っていった。
背中に感じる荻原の視線から逃げるようにして、歩く速度を徐々に上げていく。
胸のざわつきは、しばらく収まることはなかった。
作品名:Pianissimo Passo 作家名:高埜