Pianissimo Passo
いつもよりも軽い足取りで太一は帰路に着いていた。それもそのはず。短いようで長い試験がようやく終わったからだ。試験の結果を心配するよりも自由の身になれた喜びのほうが増している。早速道場へ向かおうと、友人の誘いも断って駆け足で家へと向かっていた。
信号待ちの時間すら惜しい。早く家に帰りたい気持ちとは裏腹に信号はなかなか変わることがなかった。そわそわと待っていると近くに見覚えのある人物がいることに気付いた。
(あれ…確か……)
長い前髪を鬱陶しげにもせず太一と同様に信号を待っているのはつい最近名前を知ったばかりの人物だった。荻原誠、と母から聞いた名を胸の中で呟いた。ほんの二言三言しか言葉も交わしていない。ここで声をかけるのもおかしいだろう。太一はそっと視線を信号機に戻した。瞬間、信号が直立の赤から緑へと変わる。タイミングの良さに驚いたからか、人の波より一歩遅れて地面を蹴った。
人と人の隙間を縫うようにして少し早めに歩いた。横断歩道を渡り終えたところで、太一はいつの間にか荻原と肩を並べていたことに気づく。何となく気まずさを感じて足早に通り過ぎようとするが、あれという予想外の言葉にぎくりと背筋を震わせた。
「こんにちは」
「…どうも」
「学校帰り?」
「はい」
スーパーの袋を両手に少し駆け足で荻原は太一の横に並んだ。並んでみて初めて気づいたが、太一よりも荻原のほうが少し背が高い。高い位置から顔を覗き込まれて良い気分はしなかった。
「この前、朝に会ったよな」
「はい」
「すごい集中してた」
「竹刀持ってる時はいつもあんな感じです」
「へー」
相槌を打っているがさして興味はないのだろう。荻原の表情が読めなかった。何を話せばいいのか分からず、太一も太一で聞かれたことに答えるしかない。けれど、年齢とか剣道のことをいくつか質問される。当たり障りのない回答を口にすれば、すぐにまた次の質問に移った。いつまで続くかとこっそりため息を吐いたところで、太一はそういえばと何かに気付いた。質問はいくつもされているが、名前だけは問われていない。すでに知っているかもしれない。けれど荻原は太一の名を口にすることはなかった。
「じゃあ、剣道は小さい時からやってんだ?」
「そうですね」
「へー、じゃあ俺と同じだ」
何をと視線で問えば荻原は笑ってスーパーの袋を片手に持ち替え、空の鍵盤を引く仕草をして見せた。
「ピアノ」
長い指を遊ぶようにして引いてみせた仕草に太一は思わずドキリとした。ピアノを弾く仕草なんて小学校のころから音楽の授業で見ていたはずなのに、初めて目にしたような奇妙な感覚に襲われた。
荻原の指をじっと見つめていると、荻原の指が一点を指す。つられて顔を上げると家のすぐ近くまで帰ってきていた。
「色々質問して悪かったな」
「え…」
「じゃ、また」
太一が答えるよりも早く荻原は家の門をくぐっていった。バタンと閉められた扉を見つめていると、前にも感じたざわめきが胸を過っていく。
太一がその意味を知るにはまだ早い。
あと少し、時間が必要だった。
作品名:Pianissimo Passo 作家名:高埜