Pianissimo Passo
「っくし!」
肌寒い空気が混じるようになった朝、太一は大げさにくしゃみをした。調子に乗って素振りをしすぎたかもしれない。汗をそのまま放置して練習を続けてしまっているせいだろうか。ぶるりと背筋が震えた。この時期風邪をひいている場合ではないのに、内に溜まっていくフラストレーションを解消するようだ。
太刀筋がぶれないよう真っ直ぐ振り下ろす。ぶんっと風を切る音が心地良い。何度も繰り返しているうちに周りの音が消えていく感覚に襲われた。一心不乱に迷うことなく真っ直ぐにただただ竹刀を振り続けた。
どれだけそうしていたのだろう。額から流れる汗が頬を伝い、呼吸は荒く乱れていた。Tシャツで汗を拭い家に戻ろうと振り返ると、そこには昨日出会ったばかりの男がこちらを見ていた。
「…」
一瞬の間が生まれる。また昨日のようにすぐいなくなるのだろうと思っていたが、予想外にもさわやかに挨拶され戸惑ってしまった。
「おはよう」
「…おはよう、ございます」
昨日はきちんと顔を合わすこともなかったが、こうして見てみると思いの外若いようだ。だらんと力なくゴミ袋を持っている手は、何かスポーツをしていたのだろうか。ピアノ講師にしては筋肉が備わっている。長めの前髪に隠れがちな切れ長の瞳はどこか深い色をしていた。
「剣道部なのか?」
不意に問われてハッとする。向けられた深い色が太一を映していた。
「…いえ、部活はしてません」
「道場のほうか」
「はい」
初対面の男に聞かれて何を素直に答えているのだろう。だが、ご近所ネットワークを使わずしても知られているであろう太一の情報を、この男は知らないようだ。はす向かいに住んでいれば顔を合わせないことはないだろうに、やはり太一の記憶に男の姿はどこにもなかった。
記憶を探るようにしてじっと見つめていたからか、男は怪訝そうに、何と呟いた。思いの外厳しい表情をしていたようで、男の眉は微かに顰められていた。
「あ、いや。向かいに住んでいるのに会ったことないと思って」
「ああ、そのこと」
切れ長の瞳が細められて柔らかい表情を作る。何だかわからないが胸のあたりがざわついているような気がした。自分の意とは反しているところで起こっている症状に、どことなく気分が落ち着かない。この場から逃げ出したくなるようなそんな感覚だった。
どうすることもできずにじっと男の言葉を待っていると、背後からがらっと雨戸をあける音がした。思わず肩をびくつかせると呑気な母の声が降ってきた。
「今日も精が出るわねぇ。って、あら?」
そっと母に向き直ると、その視線は先ほどまで太一が話していた男に向けられていた。礼儀正しく男が朝の挨拶を述べると、応えるようにして母もまた同じ言葉を返す。そのやり取りをぼーっと見守っていると、いつの間にか男は歩いてどこかに行ってしまった。聞くだけ聞いておいて、自分はまだ何も聞いていないのに、と太一は胸の中で悪態を吐いた。
「…なんだよ、あいつ」
「荻原さんの息子さんでしょう?確か…誠さんだったかしら」
「知ってんの?」
「そりゃご近所さんですもの」
次いで聞こうと顔を上げるが、すでに母の姿もそこにはなかった。誰もかれも人の話を最後まで聞かないと太一は人知れずため息を吐いた。
「荻原誠…」
聞いたばかりの名を呟く。まだ荻原誠(おぎわらまこと)という名前しか知らない。けれど、きっとこの名を忘れることはないだろう。何故か太一はそう確信した。それを裏付けるように、誠の名が頭の中で噛みしめるように繰り返されていた。
ふうともう一度息を吐きぐっと竹刀を握りしめる。
誠がいた道に背を向けて、太一は家の中へと戻っていった。
作品名:Pianissimo Passo 作家名:高埜