小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

Pianissimo Passo

INDEX|1ページ/8ページ|

次のページ
 

Pianissimo Passo



まだ日も陰らぬ午後。試験期間中ということもあり、毎日汗を流して励むべき部活動も停止していた。帰宅部である自分には関係ないとほくそ笑んでいたら、幼いころから通っている道場の師範からもたまには勉強するのもいいだろうと、強制的に休みを取らされた。有り余る体力を持て余していた添嶋太一(そえじまたいち)は道に転がる石ころを思い切り蹴り上げた。高く浮き上がった石は弧を描いてアスファルトの地面に落ちていく。着地点にあった石をこつんと弾き飛ばしてそれは地面へと戻っていった。

「試験なんてなくなればいい…」

呟いたまるで呪詛のように太一の体を縛った。この時間ならばいつもは道場で正座して静かに開始を待っているはずだ。自宅近くの道路で何をやっているのだろう。この時期の練習は一番重要なんだぞと誰に聞かせるわけでもなく胸の中で非難の声を上げた。
太一はお世辞にも勉強は得意ではない。普段は口うるさくない両親もさすがに試験期間中ともなれば勉強の二文字を口にすることも多くなっている。道場にこっそり行こうと家を抜け出そうとすれば、どこに行くのなんて笑顔で引きとめられてしまう。そうなれば自然と家に帰る足取りも重くなった。

引きずるようにとぼとぼと足を進める。あと少し進めばもうすぐ自宅だ。三軒先に見慣れた青い屋根があった。ふと太一は足を止める。教室や友人の家で勉強していたことにすれば少しくらい帰りが遅くなってもきっとばれないだろう。我ながら名案だと満足げな表情で、太一は来た道を戻るべくくるりと方向転換した。さっきとは打って変わって足取りは軽い。袴や竹刀は師範に借りればいいと思いを巡らせていると、背中越しに甲高い声で呼ばれぎくりと足を止めた。

「あら、太一ちゃん。おかえりなさい」
「……あ、どうも」

振り返ると向かいの家のおばさんが、穏やかな笑みで太一を見つめていた。見つかってしまったと太一はがっくり肩を落とす。これでは家に帰るほかなかった。

ご近所ネットワークを侮ってはいけない。一度誰かが目にしたことは3日以内に周囲に伝わっていると思っていいだろう。以前、太一は身をもってそのことを学んだ。あの時のことは忘れようとも忘れられない。
中学生のころ、はじめて付き合った彼女と手をつないで帰っている場面を近所のおばさんに見つかってしまった。誰にも言わないでと約束したはずが、翌日には半径50メートル以内の奥様方が知るところとなってしまった。何の前触れもなく母に今度連れていらっしゃいなと言われた時の心情は言葉では表せない。

大げさにため息を吐いて太一はもう一度足を家に方向へ戻す。一層足取りの重さが増したようだ。家までの道のりがひどく遠い。

「せんせー、またね!」

俯き加減に歩いてた太一の耳に、明るい声が飛び込んできた。顔を上げれば頬を赤く染めて音符が散らされたバッグを片手に小さな女の子が出てきた家に向かって笑顔で手を振っていた。

「はいはい、またね。気を付けて帰れよ」
「はーい!」

たたたと駆けていく元気の塊のような女の子とのやり取りに目を奪われていると、先生と呼ばれた男性が太一に気づき小さく会釈する。つられてどうもと頭を下げているうちに、バタンとドアが閉められた。

「なんだ?」

はす向かいの家でピアノ教室が開かれていることは知っていた。時折ピアノの音が聞こえてくることもある。けれどそれは母と同じくらいの年のおばさんがやっていたはずで、今太一が見かけた青年は見たこともなかった。

今思えば、この時から惹き付けられていたのかもしれない。
少しずつ太一の世界が変わり始めていく。そのことに、太一本人は気づくことはなかった。

作品名:Pianissimo Passo 作家名:高埜