「月傾く淡海」 第四章 二つの王統
「……ちょっと待てよ! 何勝手に決めてんだよ! 俺、姫と離れ離れになんか……っ!」
成り行きを見ていた稲目が、抗議の声をあげた。だが彼の反駁は大人たちに受け入れられることはなく、無視される。
真手王は深海を促し、自軍へ向かって走り出した。
彼らが遠ざかるのを確認すると、荒鹿火は部下に向かって鋭く命じる。
「--姫をこちらへ!」
ほどなく、馬を駆った倭文が荒鹿火の隣に現れた。
「--どういうことか、大連どの。息長軍は、どこへ向かったのか」
倭文は移動する軍の陣形を見渡しながら、険しい表情で荒鹿火に問うた。
「川のあちら側に、大伴の軍が控えておる。やつらは、どうあっても我らの大和入りを阻止するつもりだ。深海さまには、御身の安全を考えて、とりあえず真手王どのと共に摂津の樟葉へ向かっていただいた」
「--では、深海王の馬に乗った稲目も共に?」
倭文は驚いて言った。
眼下では、馬将に率いられた息長軍が、砂煙を上げながら急ぎ立ち去っていく。あの中に、深海と同乗した稲目もいるのか。
こんなところで、稲目と別れ別れになってしまうなんて……?。
「さよう。だが、ご心配めさるな。いずれ合流できる。それより残った我らの役目は、あの大伴軍を食い止めること」
荒鹿火は、瀬田側の向こうを指し示した。
「あの大軍を、どうやって……」
「さればこそ、姫をお呼びした。姫には我が精鋭を率いて、まず、あの唐橋を渡ろうとしておる大伴の先陣を叩いていただきたい」
倭文は厳しい眼差しで川向こうの大伴軍を注視した。大伴の兵達は、蟻のように橋を埋め尽くしている。あの中へ、わずか十数人の手勢と共に飛び込めというのか?
「……あなたの配下でもない私が、そんな無謀な命令を受けるとでも?」
倭文は冷然と言い返した。
「姫は約束をお忘れかな? 息長軍の中にも、物部の手の者は混じっておりますぞ」
「……」
「あなたに選択権はない。拒むと言われるなら、この場で斬るだけのこと。なに、深海さまには壮絶な戦死を遂げられたとでもお伝えいたすよ。その場合、当然子供の命もないが……。いかがされる?」
「汝は、ほんっとうに……」
性格の悪い男だ、と倭文は思った。
息長軍が淡海を出発する際、稲目の身柄を引き合いに出して、嫌がる倭文を強引に行軍に参加させたのは、こういう目算があったからなのだ。
倭文は本当に腹立たしく、怒りに歯噛みして荒鹿火を睨め上げた。
「お考えは」
荒鹿火は、怯む様子もなく倭文に畳み掛けた。
「――行くしか、あるまい!」
吐き捨てると、倭文は手綱を引き、与えられた兵の元に戻った。
「大将どのの命により、我ら先陣をつかまつる!」
倭文は配下の兵に短く命じた。
訓練された物部兵はなんら異を唱えることもなく、機敏な動作で陣形を整える。
「――では、参る!」
倭文は馬を駆り、物部軍の中から飛び出した。その後に、盾持ちや歩兵が続く。
大伴の先発隊で埋め尽くされた橋の中へ、倭文は飛び込んだ。向こう岸の大伴本陣から、雨のように矢が放たれる。それを盾持ち兵に防がせながら、倭文は平剣を抜いた。
大伴の兵は、眉庇付兜・肩鎧・草擦などの鉄鎧で完全武装しているが、倭文は皮製の丈夫な襲を被っただけの軽装である。
出発する時に、一応荒鹿火が鎧なども用意してくれたのだが、つけてみると動きにくいことこの上なかったので、実際には着なかった。そんなものつけなくても、まあ剣だけで降りかかる火の粉くらいはふり払えると、たかをくくっていたのである。
よもや、自ら戦の中へ飛び込んでいくことになるとは、思いもしなかった。せめて短甲くらい装備しておけばよかったと思ったが、後の祭りである。
倭文は武術の達人ではあったが、実際に戦に出るのは生まれて初めてだった。
馬に乗って目立つ彼女を女将とみた敵兵が、次々に倭文に襲い掛かってくる。
ただ相手の命を奪うことだけが重要な戦場は、これまでまったく経験したことのない異様な世界だった。
――だが倭文には、嫌悪などしている暇などない。
殺らなければ、自分が殺られる。
倭文はまず、一人だけ騎乗していた大伴の先兵隊の将の首を刎ねた。
しかし、その隙に敵兵に馬の足を切られる。倒れた馬から飛び降りた倭文は、敵味方の歩兵と入り乱れて、激しい乱戦を繰り広げた。
人数の上で圧倒的に不利な倭文達は、とにかく早く橋上での戦いを制し、援軍を呼び込むしかない。愛用の平剣しか武器を持たない倭文は、ひたすら敵兵の剥き出しになった首を刎ね続けた。
やがて、倭文の驚異的な戦いぶりによって、大伴軍は橋の向こうまで押し戻される。やっと自軍を呼び込めると思った倭文は、荒い息を切らしながら、味方側を振り返った。
―ーしかし、その時彼女の目に入ったのは、理解できない光景だった。
僅かに生き残っていた倭文配下の数人の兵たちが、何故か油を橋中に撒き散らしている。そして彼らは油を撒き終わると、一目散に東岸の物部軍のところまで逃げ帰った。
「お前達、いったい何をっ……」
驚愕して叫ぶ倭文の前で、すぐに答えは示された。
物部軍から、無数の火矢が唐橋に打ち込まれる。木で造られた唐橋は、あっという間に炎に包まれた。
凄まじい火炎に追い立てられた倭文の背後で、焼け崩れた唐橋の残骸が、轟音と共に川へ落ちていった。それを見届けた物部軍は、疾風の如き素早さで戦場から――瀬田川の東岸から、撤退していく。
川を渡る手段は断たれ、来るはずの援軍は倭文一人を敵方に残して姿を消した。
立ち上がり、前方を見据えた倭文の前に広がっていたのは――千にも上る、敵軍の本隊だった。
たった一人で敵軍のただ中に取り残された倭文は、その時はじめて荒鹿火の巡らせた策の全てを悟り――怒りに震えた手で、平剣の柄を握り絞めた。
「こういうことか――やってくれたな、物部の!」
瞳に憤怒の光を滾らし、川岸に展開する大伴軍を睥睨する。
そこには、ただ、絶望的な状況が広がっているだけだった。
瀬田川の西岸に展開した大伴軍本陣は、恐慌状態に陥っていた。
千の数を揃えた、鍛え抜かれた兵軍が――ただ一人の小娘によって、かき乱されているのである。
そこには既に、陣形も戦略もなかった。娘はただ、自分に近付く兵を――その首や足を、片っ端から斬り落とし続けているのである。
たった一人の女によって、大伴軍はすでにその三分の一を失っていた。川岸の草原は血で染まり、倒れた兵たちの屍で埋め尽くされている。
「――何故だ……どうして誰も、あの女を止められないんだ!」
一番後方に控えた大伴軍の大将・許勢(こせ)は、馬上で青ざめながら叫んだ。金村の腹心として、これまで数多くの戦を経験してきた許勢だが、こんな戦いは今まで見たことがない。
「ありえんぞ、こんなことは……あの女は、禍神の化身か!?」
戦場に幽鬼の如く立つ女の姿を恐れるように、許勢は唇を振るわせた。
「許勢さま……このままでは、我らの消耗が激しすぎます。ここはいっそ、一旦引かれては?」
「――そんなことが出来るか!」
恐々注進した配下を、許勢は激しく一括した。
作品名:「月傾く淡海」 第四章 二つの王統 作家名:さくら