「月傾く淡海」 第四章 二つの王統
「物部の荒鹿火は朝廷の軍を預かる大連だというのに、この混迷した折に許し無く勝手に宮を離れた! あやつは、朝廷に翻意を持つ反逆者である! 物部の意を待つという者は、すべて荒鹿火と同罪とみなすぞ!」
皇女の傍らにあった金村が、和邇王の言を遮り、激しい語調で一括した。
彼の言葉は、筋の通らぬ恫喝である。
しかし、武力を持つ大連である金村の凄まじい迫力と、明らかに彼の擁護についたと思われる春日皇女の権威を恐れ、それ以降、彼らに対して意見できた豪族は一人もいなかった。
近江の国は、豊かな水量を誇る淡海のおかげで夏以降も比較的暖かい日が続くが、晩秋に入った頃から時雨が多くなり、急速に冷え込んでくる。
特に、冬になると雪に閉ざされる日が多くなって来るので、深海を盟主に担いだ物部・息長の連合軍は、今のうちに野州を発つことにした。
総勢五百に上る連合軍が目指すのは、大和。
歴代の全ての大王が目指した都入りを果たさんとして、彼らもまた近江から大和へ西征を続ける。
「……しかし、深海さまが決意して下さって本当に良かった」
馬を操りながら、荒鹿火は言った。
この時代、馬はまだ貴重品だったので、騎乗しているのは先頭を行く盟主の深海と、その左右に従った荒鹿火・真手王ほか数人の主だった将だけで、軍の殆どは歩兵だった。
荒鹿火は武将であるので、鐙・鞍・面繁・轡など、実用的な装備の整った馬に乗っている。
しかし深海は、仮にも大王を名乗る者であるので、雲珠・杏葉・馬鐸などの金色に輝く装飾品をつけた、貴人用の飾り馬に乗せられていた。
「……この豊葦原を生きる人々には、みんなそれぞれ夢がある。たとえこんな僕でも、少しでもそれを叶えるための力になれれば……と思っただけです」
居心地悪そうに鞍の上に股がった深海は、前を向いたまま自分に言い聞かせるように呟いた。
「しかし……姫まで、行軍にお連れすることはなかったのでは? 危険があるやもしれな
いのに……」
躊躇うように言いながら、深海は振り返った。
彼らから少し下がった軍の中に、憮然とした表情で馬に乗る倭文の姿がある。
「姫がご自分で志願されたのですよ。このような大事に行き合わせたのも運命、できれば深海さまのお力になりたいとね。いや、ご立派なご気性だ」
荒鹿火は薄い微少を浮かべたまま、感奮したように言ってみせた。
「しかし、郎女を軍にとは……」
「いや、その点ならば心配はご無用。あの姫のご器量は、この荒鹿火をも凌ぐやもしれぬほど。それは確かにこの目で確かめております。さればこそ、わが精鋭の兵を預け、一将を担っていただいたので」
「それほどお強いのですか。そうは見えませぬが」
「……強いよ。それだけは、確かさ」
深海の馬の後ろに座らせられていた稲目が、拗ねたように言った。彼は、自分がこんな所にいなければならないのが気に入らないのだ。
倭文が行軍に参加する事になった時、彼女は稲目を淡海に置いていこうとした。しかし、稲目は「絶対倭文に着いていく」と主張した。荒鹿火は、「子供は危険だから自分の馬に乗せよう」と申し出た。倭文と稲目は、「それは絶対に嫌だ」と固辞した。
収集がつかなくなったとき、深海が「それでは自分の馬に乗せる事にしないか」と提案した。三者はそれぞれ自分の立場の主張したが、最終的に深海の案で妥協することになった。
本来の身分を考えれば、深海と稲目が同乗するなど考えられぬことである。しかし、深海の浮き世離れした性格が、それを実現させてしまった。
淡海を西へ下っていた一行は、やがて瀬田川の東岸に出た。しかし、そこで彼らを待っていたのは、思いもしない光景だった。
「あれは……」
川の向こう側を見やって、深海は絶句した。
瀬田川の西側には、大軍がものものしい陣営を構えていた。軍の数はおびただしく、その終わりがどこまで続いているのか判らぬほどである。軍旗は地を覆い、土ぼこりは連なって天へ上がっていた。
「あれは……大伴の……っ」
荒鹿火は形相を一変させ、馬を駆って前へ出ると、川の向こう岸に向かって大声で怒鳴った。
「我らは新たなる大王、誉田別の大王五世の孫君、深海王を仰ぎ、大和入りするものである! 汝らはただちに軍を解き、王をお通しせよ!」
荒鹿火の怒声は川面を越えて向こう岸へ響き渡る。
途端に、大伴軍は「かね鼓」を打ち鳴らし、数百の兵が胴間声を上げた。
やがて、陣営の中から将と思しき男が現れ、荒鹿火に向かって言い返す。
「黙れ、反逆者! 宮殿には既に、足仲彦の大王五世の孫君、橘王が新たな大王としておわす! 偽王は即刻去れ! さもなくば、討ち滅ぼすぞ!」
「足仲彦の五世孫だと!? おのれ金村め、そんな手を……っ」
「どういうことですか、荒鹿火。大和には既に大王がいるのですか?」
突然の成りゆきに、深海は喫驚しながら荒鹿火の側に馬を寄せた。
「ご安心を、深海さま。大王は、どんな後ろ楯があろうとも、玉璽を持たねば即位出来ませぬ。玉璽は、代々我が物部一族が司っております。偽王はあちらです。佞臣の大伴が、野心の為に偽王を立てたのです!」
荒鹿火は、喘ぐように深海に説明する。彼の中で、金村に対する赫怒が渦巻いていた。
「--しかし、どうやってあれを突破するというのだ」
深海を追ってきた真手王が、冷ややかに荒鹿火に聞いた。
大伴軍は、軽く物部・息長軍の倍はあった。彼らの一部は、すでに瀬田川にかかる唯一の唐橋を渡らんとしている。
「我らは、そなたに命を預けてここまできたのだ。なんとしても、深海を大王にしてもらわねば許さぬぞ」
真手王は大伴軍の動向に目をやりながら、非情に言い放った。
「無論。我ら物部もそのつもり……」
苦虫を噛み潰したような顔で真手王に告げ、荒鹿火は必死に考えを巡らる。
どうにか、この局面を乗り切る策を……。
「--真手王どの。軍を、二つに分けまする」
荒鹿火は、唐橋の向こうを見据えて言った。
「軍を二つに?」
「大伴軍は、我ら物部軍が押さえます。その間に、息長軍は迂回して淡海を渡り、山背の北部を抜けて摂津に入られよ」
「摂津? 摂津に入って、どうするのだ」
真手王は怪訝そうに聞いた。
「恐らくこの先も、大和へ入るための要衝は大伴が押さえているだろう。大和の国と境を接した摂津の東に、樟葉という地があり、そこに昔の大王が築いた宮がある。ひとまずは、そこに入られることだ」
「--よかろう。しかし、そなたらだけで、あの軍をくいとめられるのかな」
「ご安心を。この荒鹿火に、策がある」
荒鹿火は、確固とした口調で言った。
しばし黙考し、真手王は頷く。
「……承知。--では深海、行くぞ!」
「しかし真手王、彼らだけを残しては……っ」
「お前が生きているということが、俺達にとって一番大切なんだよ! それがわからないのか!」
真手王は深海を叱咤する。
深海は打ちのめされたようにはっとした。彼は唇を噛み締め、手綱を強く握ると、己を鼓舞して荒鹿火のほうを向き直った。
「--では大連どの。……ご無事で……」
「御身こそ。お祈りいたしております」
荒鹿火は、深海に向かって目礼する。
作品名:「月傾く淡海」 第四章 二つの王統 作家名:さくら