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「月傾く淡海」  第四章 二つの王統

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「荒鹿火率いる物部本陣と戦ったのならともかく、得体のしれぬ女一人に敗れて帰ってきたなど、金村さまに報告できるかっ。俺の首が飛ぶわっ!」
「しかし、このままでは……」
「まだ兵は六百あまり残っておる! ――見ろ、あの女、そろそろふらつきかけておるぞ。そういつまでもは保つまいて……」
 願うように呟きながら、許勢は残った兵たちに、何度目かの総攻撃を命じた。


 ……いったい、どのくらいこうしているのだろう。
 倭文には、既に時の感覚が無くなっていた。
 兵を十人くらい斬った気がする……いや、百人だったかもしれない。
 吹き荒ぶ風も、立ち上がる埃も、全てが血臭に染まっているようで、他の物は何も感じられない。
 わかるのは、まだ兵が山ほど残っている、という事だけだった。
 戦いは、もはや技量や体力を凌駕した領域に入っている。倭文はただ、精神力だけで戦場に立ち続けていたのだった。
(ああ、でも、もうそろそろ駄目かもしれない……)
 何人目かの兵を斬りながら、倭文は空虚に考えた。
 ――不思議と、絶望感は湧いてこなかった。
 羽織った襲は、敵兵の返り血を浴びてべっとりと重くなっている。唯一の武器だった平剣も、とうの昔に刃こぼれしていた。――足も、もうふらふらだ。
(なんで私、こんなに必死になって戦ってるんだろう……)
 不意に倭文は、懸命に戦う己が可笑しくなってきた。
 こんな所で、命をかけて。
 たった一人で戦っている。
 それは、けして、物部の為ではない。……それだけは、確かだが。
 ――では、何の為に?
 摂津へ逃がした深海の為でもなかった。
 彼らとは、ただ流れゆくそれぞれの運命の中で、ほんの僅か行き合っただけの縁だ。守らねばと思うほどの執着はない。
 今の倭文は、背に庇うべき何者も持ってはないかった。
(葛城を守るための戦でもないのに……私は、どうして……)
 ――「では、葛城を守る為ならば、命を懸けられるのか?」
 倭文の中で、今一人の自分が問いを重ねた。
 ……ああ、少なくとも、理由にはなるだろう。
 意味なき戦ほど、虚しいものはないのだから……。
(……もう、倒れたっていいのに。後は、時間の問題だ。どのみち、私はここで殺される……)
 倭文の中に、諦めが生まれた。
 葛城から離れた、こんな異郷の地で。他族の戦に巻き込まれて。物部の策略にはまって。――愚かにも。
 そう、愚かだ。だけど、仕方がない。
 もう、終わりなのだから。
(いつから……私は、こんな冷めた気持ちしか持てなくなってしまったんだろう。いつも、自分には関係ないと逃げて……首長の座からも……)
 本当に大切に思うものなんて、何もないんだ。
 一族も、王であることも、意味なんてない。
 懸命になれることもなかった。
 じゃあ、もう、いいじゃないか……。
 倭文の心に隙が出来た。敵兵は、その間隙を的確に突いてきた。
 ――敵の一撃を受けて、遂に平剣が折れた。
 倭文を取り囲んだ兵の一人が、太刀を振り上げて彼女の左肩を斬った。
 激痛を感じた瞬間、倭文の体が傾いだ。
 倭文は最早抗う気力さえ持たず、体の力が抜けゆくままに倒れかける。
 ……このまま、敵軍に惨殺されてしまうんだろう。
 倭文は諦めて目を閉じた――しかし、予想した痛みは感じなかった。
 かわりに、誰かが自分を抱え上げたのを感じた。
 では、捕虜にされるのか……そう思った倭文の耳に、あるはずのない声が聞こえてきた。
「……まだこんなとこで死ぬなよ」
 敵兵の中に、異質なざわめきが起こる。
 聞き覚えのある声は、続けて倭文に言った。
「お前には、やってもらうことが残ってるんだからな」
 倭文は、薄目を開けて声の主を覗いた。
「一言主……?」
 凄惨な戦の只中に、葛城一言主は悠然と立っていた。右手に倭文を抱え、左手に長矛を握っている。
「どうして……ここに……あなたは、葛城山に依り憑いているんじゃあ……」
「……なあ、人間の限界って知ってるか? どんなに優れていても、がんばっても、所詮数には敵わないってことだ。残酷な真理だよな。――でもまあ、お前はよくやったよ」
 一言主は、手に持った長矛を振り上げると、大伴の兵に向かって振り下ろした。
 長矛から閃光がほとばしり、その光刃は大伴軍を薙ぎ払う。
 瀬田の西岸に残った六百の軍兵は、一瞬で殲滅させられてしまった。


(第四章おわり 第五章へつづく)