「月傾く淡海」 第四章 二つの王統
厳めしい荒鹿火の面差しを見つめながら、倭文はむしろ感心するように思った。
十五で宮殿に上がったときから、この男はそうやって政治闘争を繰り返しながら、二十年以上も最高権力者の一人として生き抜いてきたのだ。
具体的な力以外を信じないその現実的な強さと潔さを、倭文は羨ましいとさえ思った。
「--弟君が大伴と手を組んだことは、あなたのご指示だったのか」
「……ええっ? あの馬鹿な子が、とうとうそんな事を!?」
突如意外な事を聞かされた倭文は、思わず構えるのを忘れて、素のまま叫んでしまった。
「……ああ。姉姫と弟君が反目しておられるという話は、やはり本当でしたか」
倭文の率直な反応を見た荒鹿火は、一瞬その口元を緩め、薄い憫笑を浮かべた。
「そんなこと、関係無いでしょう、あなたには……」
迂闊な己を少々恥ずかしく思った倭文は、憮然とした表情になる。
「いや、おおいにある。物部は、これ以上の大伴の専横を看過できぬのでな」
「--『専横』? ただ、あなたの政敵だというだけでしょう」
倭文は、荒鹿火の言葉を捉えて辛辣に返した。
「確かに。だがあなたが葛城王族の血を引く以上、我らにそんなことは言えぬはずだよ」
荒鹿火は冷淡に反駁した。
「--あなたは、平群の時の件を、どう考えておられるのか」
不意に口調を変えると、荒鹿火は急に古い乱の話を持ち出した。
今を生きる豪族達に、様々な違った運命を--繁栄と滅亡と混乱を招く原点となった乱だった。
「……若雀の大王をお立てしたことは、過ちではない。--しかし「葛城」としてではなく、私自身の考えであるならば……あの時大伴と手を組んだのは……あるいは間違いではなかったかと……」
倭文は一族の苦い歴史を思い出しながら、沈鬱な表情で呟いた。
「では、あなたはこの『今』、どうなさるおつもりか。姫は賢し女(さかしめ)と聞いておる。葛城の長として答えよ」
「--くどい。何度も言わせるな。それを決めるのは、この私ではない!」
荒鹿火の責め立てるような語調に辟易して、倭文はつい激越に叫んでしまった。
対峙した二人の間に、緊迫した剣呑な空気が漂う。
「……頑迷な……。ならば、あなたの身柄は物部が押さえる。危険な葛城の姫を、このまま泳がせておくわけにはいかぬのでな」
言いながら、荒鹿火は腰の太刀に手を置いた。
「--へえ? それはまた面白い」
頭では、挑発だと判っていた。
しかし倭文もこの場を引くわけにはいかず、構えをとりながら帯びていた平剣に手をそえた。
「物部の。相手が小娘と思って、侮るなよ……」
「--いや。汝の技量は、見ただけで伝わってくる。武人としては、一度手合わせしたいものだがな……」
どこか残念そうに呟き、荒鹿火は抜きかけた太刀をおさめた。
「あなたには、別の使い方がある。姫、あなたは我々の為に役だっていただかなくてはならない。--これ以後、自由に逃げられるとはお思いになるな。どこへ行こうと、物部の兵が見張っておるゆえ」
「兵ごときが私を止められるとでも?」
「あなただけは、兵にも勝てるでしょうな。だがその場合、供人の子供は死ぬことになるでしょうよ」
荒鹿火はさらりと告げた。
「あの子は、海石榴市で買った何処とも素性の知れぬただの奴卑だ! 葛城とは、何の関わりも無い子供を巻き込む気か……っ」
荒鹿火の言いように激昂しながら、倭文は稲目をかばって大声で怒鳴った。
「では、葛城の血を引かぬ奴卑一人の命など、長たるあなたが気にされることもなかろう? 思いのままにしてみますかな」
荒鹿火は倭文を見下げて嘲弄した。
「卑怯な……」
倭文は荒鹿火を睨み付け、搾り出すように言う。
「この程度の事など、卑怯とも言わぬのだよ。……まあ、いずれあなたにもわかる……」
余裕を浮かべたまま、子供でも諭すように荒鹿火は倭文に言った。
何を言われようと顔色一つ変えぬ荒鹿火を見ながら、年月によって作り出された老獪さというのはこういうことなのだと、倭文はこの時身をもって知らされた。
大和の列城宮に集まった豪族たちは、みな落ち着かぬ調子で一様にざわついていた。
各豪族の長たちは、先々代の大后(おおきさき)・春日皇女(かすがのひめみこ)の命により、緊急に呼び出されたのである。
この頃の慣習として、突然に大王が崩御して後継が決まらぬ場合、一時的に大后が皇位を継ぐことがある。若雀の大王は正式な大后を定める前に亡くなってしまった為、その先代であった億計の大王の大后・春日皇女を大王に推す声もあったが、本人は高齢を理由に固辞し続けていた。
「どういうことだろうか。ついに、先の大后は、御位におつきになる決心をなさったのだろうか」
常の合議の間ではなく、大王に謁見するための間に並ばされた和邇王は、小声で傍らの茨田臣に話しかける。
「しかし……聞くところによると、物部どのが淡海に新王をお迎えに上がったとか。その物部どのがお帰りにならぬうちに、大后の大王即位など……」
茨田臣は、御簾の降ろされた上座を覗きながら言葉を濁す。その御簾の向こうには、在りし頃、若雀の大王が座っていたものだった。
「--春日皇女のお入りでございます!」
その時、先触れが声を張り上げた。豪族たちは一斉に平伏し、皇女を迎え入れる。
高齢の春日皇女は、ゆっくりとした足捌きで彼らの前に現れた。御簾の前に立つと、豪族たちに声をかける。
「……みな、顔をお上げなさないな」
皇女の命令で頭をあげた豪族たちの中から、小さなざわめきが起こった。
春日の皇女は、その左右にまるで年齢の違う二人の男--大伴の金村と、葛城の香々瀬王を従えていたのである。
軽く手を上げて、驚く豪族たちを制すると、春日皇女は小さいがよく透る声で彼らに告げた。
「……先の大王がみまかられて以来、宮の内は乱れ、わたくしは心痛めておりました。しかしここな二人、大伴の大連と葛城王が功を労し、大王に相応しい方を、お捜し申し上げてまいりました。--丹波におられた、橘王。足仲彦の大王の、五世の孫君にあたられる方です」
そこまで語ると春日皇女は膝をつき、御簾に向かって拝礼した。金村と香々瀬も皇女に従う。
人々の前で、御簾がするすると巻き上げられた。
空位のはずの玉座には、一人の若い男の姿があった。 橘王は、ゆったりとした常の如き泰然さで胡床にいました。諸臣を前にして動ぜぬその風格は、まるで生まれながらの人主であるかのようだった。
「……橘王は、人々を愛で、さかしきを敬い、またその御心ゆたかな御方。天下をおさむ
るに、最も相応しき方です」
春日の皇女は、淡々と語った。
彼女の言葉は、静かでよどみない。まるで、あらかじめ誰かが決めた台詞を、ただ暗唱しているだけであるかのような、そんな口調だった。
突然の事態に、豪族たちは皆困惑して顔を見合わせる。やがて、その中から和邇王がおずおずと声をあげた。
「畏れながら……。大王即位は、大臣・大連・将相・諸臣すべての推挙と三種の玉璽がそろって初めて正式に認められるもの。しかるに、ただいま玉璽を司る物部の大連どのがおられぬゆえ、早急に事を決するのはいかがかと……」
作品名:「月傾く淡海」 第四章 二つの王統 作家名:さくら