珈琲日和 その5
僕はそう言って、ホットカフェオレをお出ししました。先日の渡部さん同様、シゲさんもかなりかっかとしていました。無理もありません。必要だと思うからこその行動そして怒りなのに、その怒りを軽視すべきではないのだと思うのです。
今頃、渡部さんは終わっていく準備が進む病院で、外来患者の子ども達の診察をしながら、もしくは赤ちゃんの回診をしながら何を思っているのだろうと、そんな事が浮かびました。僕なら一生懸命に生きようとして戦っている子ども達を目の前にしたら、きっと泣いてしまいそうに思えたからです。
「渡部先生は立派だよ」
シゲさんがまるで苦痛に顔をしかめたようになって溜息みたいに呟きました。
確か最後まで抗議の声を上げていたのは渡部さんと新生児科の看護婦達だったと聞いています。何とも言えない気分になって僕は言葉もなく窓の外を眺めました。あの小さな紅葉達が幾つも幾つも出来立ての変に白い和紙みたいな空に赤く燃え上がっているようでした。堪らなくなって、僕は音楽を変えました。Ray charlesが嗄れた声でリズムよく歌いだしました。
「どうなっちまうのかねぇ・・・」
シゲさんの声は些かさっきよりは柔らかくなっていました。僕は安心しました。
「きっとそれなりに何とかなりますよ。どうぞ。今日は特別に厚切りソーセージを挟みました」
そう言って、僕はシゲさんに大好物のミックスサンドイッチを出しました。
「おお。豪華だねぇ。うまそうだ。有難くいただくぜ」
シゲさんは嬉しそうに顔を綻ばせてサンドイッチに取りかかりました。見ていて、つい食べたくなってしまうくらいに美味しそうに頬張りながら新聞を広げて眺め始めました。
「そいや俺、この間、あの小児病院のおばちゃん先生に商店街で偶然会った。マスター、おばちゃん先生知ってる?白衣なんて着てなくて、保母さんみたいなエプロンしてる、けっこうな年のおばちゃん先生」
「さぁ、わかりませんね。僕がかかったのなんて、もう40年以上前ですから」
「俺ぁさ、娘の水いぼの時にお世話になったんだな。まだ1歳になったかなってねーかくらいの時でな、色んな皮膚科に行っても診てくれなくてタライ回しになってたんだ。長い事待ってようやく診てくれてもうちじゃあ、無理だとか言われてよ。結局小児病院に行き着いた。先生はな、白衣も着てなくてニコニコニコニコしてたから最初は新手の看護婦かなんかのおばちゃんか?って俺ぁこう思ったのさ。だけどもテキパキとして何とまぁ手さばきの鮮やかな事だ。娘の水いぼを次々取りのけていったよ。他の白衣着た偉そうな若い医者達も指示を仰ぎに来ていたくらいの、ありゃー院長の次くらいの地位のベテラン先生だったんじゃねーかなぁ。俺ぁビックリしてなぁ。お陰で娘は跡も残らないくらいに綺麗になった。まったくありがたい事よ」
「その先生と会ったんですか」
「そうだ。夕方の商店街でばったりな。パッと見は普通のおばちゃんだったな。俺は忘れもしねーが、あっちはもう毎日のように何十人って同じような子どもを診ているもんだから、よくは覚えちゃいなかったけどな。相変らずニコニコニコニコしてたな。俺が、ありがとうございます!またお世話になるときゃ宜しくお願いします!ってこう言ったらな、その先生は何も答えずに寂しそうに笑ったんだ。それがやかに印象深くてな。今思えばあの時はもう閉鎖に向けて動き出してたのかもしれねーなぁ」
「今度の大きな所にも、そのおばちゃん先生は・・」
「行かねーだろうな。無理だよ。あの先生はあそこの病院でだけ通用していたみたいなとこがあったと俺ぁ思うね。だから白衣なんて着ないでいられたんじゃねーかな」
「でも、そんなにベテランだったら喜んで欲しがるでしょう」
「いーや。俺な、つい最近その小児医療センターってとこを見て来たんだ。どのくらい遠いのかってな。成る程確かにバカでかかった。それでなハイテクなのさ。無駄に金かけてますって感じのだだっ広さって言うのか。でもな、親しみがないんだよ。そこは小児専門だけじゃないからかもしれねぇけどな。医者も白衣着たロボットみてーな感じに歩いてやがったよ。俺ぁダメだ。あーゆう頭の固そうな小難しい専門用語ばっか並べ立てるような口先八寸みたいな医者は苦手なんだ」
「そうですか。そんな所では逆に親しみやすさが浮いてしまうんですね」
「そうよ。そんなとこには、あのおばちゃん先生はきっと行かないだろうなとな、勝手に思ったのさ」
「もったいないですね」
「まったくだ。渡部先生はどうなんだろうな? 向こうのデカイとこに移っちまうんかな」
「いいえ。この機会に、もう大きな病院からは足を洗うそうですよ」
「辞めちまうのか?!」
「いえ。田舎に移ってのんびり開業医でもするつもりだと言ってましたが」
「そうかー もったいねーなぁ。渡部先生もおばちゃん先生と対等くらいの腕で有名だったのになぁ。ま、でも夫婦で田舎に移って暮らすのも悪くねぇからな。子どもはまだいねぇみたいだったからな」
「え?! 渡部さんは結婚もまだな筈ですよ」
「いやいや。よく飲んでた時にみね子がどうのって話してたぜ。あの親しみある言い方からして、かみさんだと思ってたけど・・・・違うんか?」
「みね子? あぁ、美猫さんですね」
「ほら見ろ。いるじゃねーか」
「まぁ、いるにはいますけど、僕の記憶が確かなら美猫さんは綺麗な雌の三毛猫さんだった筈ですよ」
「何? 猫?!」
「ええ。僕も何度か聞いた事があるんですけど、仕事があの通り休む暇もない程なので、人間の女が居着かないで猫の女ばかりが居着いて困るんだっておっしゃってましたよ。迷い猫なのか庭の彼岸花の所にいたそうです。赤い鈴をつけていたので飼い猫かと思って気にしなかったみたいなんですけど、いつのまにか一緒に暮らすようになったとかなんとか。綺麗な雌猫だから、せっかくだから名前を人間っぽく美猫さんとつけたんだとも」
「何だよ。猫かよ。俺ぁてっきりかみさんかなにかかと思ってた」
「渡部さんにとって、恋人を作って夫婦になるにも良い機会なんじゃないですか?」
「ま、そうだな。一生を病院に捧げるわけにゃいかねーからなぁ。そればっかは先生の自由だ」
その月の最終の凍てつくような寒い曇った日。とうとう小児病院は、今まで早朝だろうと深夜だろうと関係なく開け放たれていて決して閉まる事のなかった赤錆びだらけの古い門を完全に閉ざしました。
僕は買い出しのついでに足を伸ばして行ってみたのです。患者だった人でしょうか、中年過ぎくらいの女性が険しい表情で名残惜しそうに門の前に佇んでいて、その足下には花束が幾つか置いてありました。病院は、終わりを迎えたもの特有の虚しく寂しい空気にひっそりと包まれていて、駐車場に植えられた桜の木がたくさん茂った明るい黄色やくすんだ橙に変わった葉を不安そうにひらひら落としていました。まだ日が経っていないのにまるで廃墟のようなうち捨てられた雰囲気でした。
僕は生気のなくなったくたびれた壁や、真っ暗になった物悲しい窓ガラスを見ていられなくなり早足で引き返しました。振り向くと、女性はそこにいるなにかと対話でもするように、まだ佇んで建物を見上げていました。