珈琲日和 その5
背筋が伸びるように清々しい風が吹く晩秋の昼下がり。赤や黄色や橙の紅葉が美しく彩り始めた頃でした。店の入り口に這う蔦も日に当たる部分から徐々に鮮やかな煉瓦色を帯びてきて、千歳翠に萌黄、橙、蘇芳色がグラデーションになって何とも華やかな装いになり、まるで違う店のようです。
その男性は何処か苛々していると言った感じにいきなり店に入って来て、些か乱暴な仕草でカウンターの右から2番目に座り、若干怒鳴るようにカフェモカを注文しました。
僕は特別丁寧に入れたカフェモカをお出ししました。
「まったく、やってらんねーよ」
そんな事を呟くように小さくこぼして、その方は優しく甘い香りがたっているカフェモカを一口啜りました。それから、ぼさぼさの頭を振りながら頬杖をついて、猫背気味に前屈みになって物思いに耽っていました。僕は少し離れた所で洗い上がったカップを拭いていました。しばらくすると、その男性がぼそっと言ったのです。
「今月で病院が閉鎖する」
「え!小児病院がですか?!」僕は驚いて思わず声を荒げてしまいました。
「そうだ」
「またどうして」
「不要なんだとさ」
「不要? でも、ここらの大きな小児専門の病院はあそこだけですよ」
「その通りだ」
「僕も小さい頃、入院した事があって、何回かお世話になったんですよ。今だってひっきりなしに産まれたての赤ちゃんを乗せたドクターカーが行き交っているじゃないですか」
「そう。長い間反対されていたんだが、上のバカ共が押し切って無理矢理決めやがった」
「代わりの病院は何処になるんですか?」
「ここから車で1時間くらいのところに大規模な小児医療センターを建設している。そこに統合されるんだ」
「遠いですね。小さなお子さんがいる家庭が大変だ」
「大変なんて生易しいもんじゃないんだ!」
いきなりその方が怒りをあらわにして怒鳴ったのです。僕は自分の事でないにしろ少し後ずさってしまいました。何しろ、いつもは物静かなその方が一変して医師特有の迫力と凄みがありました。
「こんなバカな話があってたまるか!今だって全然NICUが足りてないんだ!あと30は必要なんだ!それを統合して更に少なくしやがる!上の人間は何もわかっちゃいない!現場で休む間もなく呼び出される俺達医師と薄給の看護婦、それに何の罪もないちっこいガキ共とそれに必死に付き添う家族の現状を何1つわかっちゃいない!俺達医師、看護婦に現場の責任をおっ被せて、必死で生きようとして助けを求めているちっこいガキ共に死ねと言ってるようなもんだ!やつらは無力なガキ共が何人死のうが、医師や看護婦が過労で死のうが知ったこっちゃないのさ!それなのに、なにが少子化対策だ!?」
「その統合計画の意図は何なんでしょう?」
「無駄な費用削減だ」
「無駄・・・?!」
「そうだ。だから、やってらんねーのさ」
その方は枯れ葉のようになった顔色に薄い歪んだ笑いを浮かべて、カフェモカを一口飲みました。
僕も吃驚してしまい一気に質問ばかりをしてしまいましたが、それだけその古くからある病院の存在はここらの住民にとって大きかったのです。いえ。この地域だけだはなく、他の遠い所からも通って来ている人もいる程その優れた医療体制で有名でした。と言うよりむしろ、そこまで子ども専門にしっかりした設備を整えた病院が近隣になかったのです。
僕は小さい頃、親に連れられて行ったその真新しい病院の広い待ち合い室や、明るくて可愛らしい診察室なんかを思い出しました。優しい看護婦さんのネームプレートには、僕がその時大好きだったスーパージェッターの少し下手くそな絵がくっ付いていました。注射する時にじっとそれを見て痛いのを我慢したんだっけ。それを取り壊す。不況と言う言葉が頭を過りましたが、そんな事ではないような気がしました。確かにかなり古い建物なので老築化を食い止める為には色々と費用がかかるのかもしれません。しかし、そこで救われた命はその費用以上の価値があるのではないでしょうか?
「渡部さんも転勤ですか?」
「いや。俺はいい機会だから、もう足を洗おうと思ってる」
「小児科医を辞めるんですか?」
「いや。デカイ職場から足を洗う」
「そうですか」
「何処か田舎にでも引っ込んで、そこで開業してのんびりしようかと考えてる」
「いいですね」
「こんな都会で、一分一秒時計と睨み合って、それでも救い切れないガキ共の死を当たり前のように見送るのにもう心底疲れたのさ。救えなかったガキ共が枕辺に立たない生活をしたくてな」
冷め始めたカフェモカを渡部さんは一気に飲み干した。それは自分や周りに決意を新たに表明するようにも見えました。彼はしばらくカップの縁を親指でなぞっていましたが、ふとぼそっと言って立ち上がりました。
「逃げって事になるのかもしれないけどなぁ・・・・・マスター、ご馳走様」
渡部さんが勢いよく出て行った後、いつまでも扉が揺れていました。僕は何とも言えない気持ちで、小児病院の行く末と、それを受け入れなければいけない小さな子ども達と医師と看護婦の気持ちをぼんやり思いました。窓からは力強い日差しが差し込んで来ていて、隣の庭で揺れる赤ちゃんの手のような小さな紅葉が真紅に染まっているのが見えました。
それから数日後、鼠色霜降り編み帽子のシゲさんが競馬新聞を片手に慌てたように入ってきました。
「おう!マスター!小児病院が今月で閉鎖になるって知ってたか?!」
僕は静かに頷きました。鼻がつんとする程寒くて、やけに真っ白い空が広がる日でした。シゲさんの羽織ったくすんだジャケットにも白い冷気がくっ付いてきているようでした。
「先日、渡部さんがいらっしゃっいまして、その時に」
「そっかぁ。俺ぁ今日聞いたんだ。渡部先生には娘から孫からずっと世話になってるからな、それで、ここが行きつけってんで盛り上がって一緒に飲みにも行ってたんだ。ところが最近、先生は誘っても断られちまってな。おかしいなと思ってはいたんだがな・・・」
「そうだったんですか」
「病院の閉鎖問題が本格的に動きだしちまったらしくて、抗議やら何やらで大変だったらしいんだ」
「誰も閉鎖を望んでいませんからね」
「そうだ。本当にな。俺のとこなんか、また孫が増えるんだ」
「お、そうなんですか!それはおめでたいですね」
またしても思わず声を大きくしてしまい、慌ててカウンターの端っこに腰掛けて静かにクリームコロッケカレーを召し上がっていらっしゃる初老のお客様にお詫びをしに行きました。その方は上品に微笑んで、もう食べ終わったから構わないと手を振りお勘定を差し出しました。僕がお釣りを渡して再度謝ると、その方はにっこりして「赤ちゃんは可愛いです」とおっしゃられて帰られました。
「いや。無事に産まれるかどうかもわからねーからな。何しろ娘は体がちっこいから、長女の出産も早かった上に難産でえらく大変だったんだ。その時にも産まれてすぐ渡部先生にお世話になってな。まったく。閉鎖撤回運動にも参加して、座り込みまでしたっていうのによ。決める時は患者無視して勝手に決めやがって。こんなんじゃ病院も普通の商売と何ら変わらねえじゃねーか。いや。それ以下か?」
「まったく同感です」
その男性は何処か苛々していると言った感じにいきなり店に入って来て、些か乱暴な仕草でカウンターの右から2番目に座り、若干怒鳴るようにカフェモカを注文しました。
僕は特別丁寧に入れたカフェモカをお出ししました。
「まったく、やってらんねーよ」
そんな事を呟くように小さくこぼして、その方は優しく甘い香りがたっているカフェモカを一口啜りました。それから、ぼさぼさの頭を振りながら頬杖をついて、猫背気味に前屈みになって物思いに耽っていました。僕は少し離れた所で洗い上がったカップを拭いていました。しばらくすると、その男性がぼそっと言ったのです。
「今月で病院が閉鎖する」
「え!小児病院がですか?!」僕は驚いて思わず声を荒げてしまいました。
「そうだ」
「またどうして」
「不要なんだとさ」
「不要? でも、ここらの大きな小児専門の病院はあそこだけですよ」
「その通りだ」
「僕も小さい頃、入院した事があって、何回かお世話になったんですよ。今だってひっきりなしに産まれたての赤ちゃんを乗せたドクターカーが行き交っているじゃないですか」
「そう。長い間反対されていたんだが、上のバカ共が押し切って無理矢理決めやがった」
「代わりの病院は何処になるんですか?」
「ここから車で1時間くらいのところに大規模な小児医療センターを建設している。そこに統合されるんだ」
「遠いですね。小さなお子さんがいる家庭が大変だ」
「大変なんて生易しいもんじゃないんだ!」
いきなりその方が怒りをあらわにして怒鳴ったのです。僕は自分の事でないにしろ少し後ずさってしまいました。何しろ、いつもは物静かなその方が一変して医師特有の迫力と凄みがありました。
「こんなバカな話があってたまるか!今だって全然NICUが足りてないんだ!あと30は必要なんだ!それを統合して更に少なくしやがる!上の人間は何もわかっちゃいない!現場で休む間もなく呼び出される俺達医師と薄給の看護婦、それに何の罪もないちっこいガキ共とそれに必死に付き添う家族の現状を何1つわかっちゃいない!俺達医師、看護婦に現場の責任をおっ被せて、必死で生きようとして助けを求めているちっこいガキ共に死ねと言ってるようなもんだ!やつらは無力なガキ共が何人死のうが、医師や看護婦が過労で死のうが知ったこっちゃないのさ!それなのに、なにが少子化対策だ!?」
「その統合計画の意図は何なんでしょう?」
「無駄な費用削減だ」
「無駄・・・?!」
「そうだ。だから、やってらんねーのさ」
その方は枯れ葉のようになった顔色に薄い歪んだ笑いを浮かべて、カフェモカを一口飲みました。
僕も吃驚してしまい一気に質問ばかりをしてしまいましたが、それだけその古くからある病院の存在はここらの住民にとって大きかったのです。いえ。この地域だけだはなく、他の遠い所からも通って来ている人もいる程その優れた医療体制で有名でした。と言うよりむしろ、そこまで子ども専門にしっかりした設備を整えた病院が近隣になかったのです。
僕は小さい頃、親に連れられて行ったその真新しい病院の広い待ち合い室や、明るくて可愛らしい診察室なんかを思い出しました。優しい看護婦さんのネームプレートには、僕がその時大好きだったスーパージェッターの少し下手くそな絵がくっ付いていました。注射する時にじっとそれを見て痛いのを我慢したんだっけ。それを取り壊す。不況と言う言葉が頭を過りましたが、そんな事ではないような気がしました。確かにかなり古い建物なので老築化を食い止める為には色々と費用がかかるのかもしれません。しかし、そこで救われた命はその費用以上の価値があるのではないでしょうか?
「渡部さんも転勤ですか?」
「いや。俺はいい機会だから、もう足を洗おうと思ってる」
「小児科医を辞めるんですか?」
「いや。デカイ職場から足を洗う」
「そうですか」
「何処か田舎にでも引っ込んで、そこで開業してのんびりしようかと考えてる」
「いいですね」
「こんな都会で、一分一秒時計と睨み合って、それでも救い切れないガキ共の死を当たり前のように見送るのにもう心底疲れたのさ。救えなかったガキ共が枕辺に立たない生活をしたくてな」
冷め始めたカフェモカを渡部さんは一気に飲み干した。それは自分や周りに決意を新たに表明するようにも見えました。彼はしばらくカップの縁を親指でなぞっていましたが、ふとぼそっと言って立ち上がりました。
「逃げって事になるのかもしれないけどなぁ・・・・・マスター、ご馳走様」
渡部さんが勢いよく出て行った後、いつまでも扉が揺れていました。僕は何とも言えない気持ちで、小児病院の行く末と、それを受け入れなければいけない小さな子ども達と医師と看護婦の気持ちをぼんやり思いました。窓からは力強い日差しが差し込んで来ていて、隣の庭で揺れる赤ちゃんの手のような小さな紅葉が真紅に染まっているのが見えました。
それから数日後、鼠色霜降り編み帽子のシゲさんが競馬新聞を片手に慌てたように入ってきました。
「おう!マスター!小児病院が今月で閉鎖になるって知ってたか?!」
僕は静かに頷きました。鼻がつんとする程寒くて、やけに真っ白い空が広がる日でした。シゲさんの羽織ったくすんだジャケットにも白い冷気がくっ付いてきているようでした。
「先日、渡部さんがいらっしゃっいまして、その時に」
「そっかぁ。俺ぁ今日聞いたんだ。渡部先生には娘から孫からずっと世話になってるからな、それで、ここが行きつけってんで盛り上がって一緒に飲みにも行ってたんだ。ところが最近、先生は誘っても断られちまってな。おかしいなと思ってはいたんだがな・・・」
「そうだったんですか」
「病院の閉鎖問題が本格的に動きだしちまったらしくて、抗議やら何やらで大変だったらしいんだ」
「誰も閉鎖を望んでいませんからね」
「そうだ。本当にな。俺のとこなんか、また孫が増えるんだ」
「お、そうなんですか!それはおめでたいですね」
またしても思わず声を大きくしてしまい、慌ててカウンターの端っこに腰掛けて静かにクリームコロッケカレーを召し上がっていらっしゃる初老のお客様にお詫びをしに行きました。その方は上品に微笑んで、もう食べ終わったから構わないと手を振りお勘定を差し出しました。僕がお釣りを渡して再度謝ると、その方はにっこりして「赤ちゃんは可愛いです」とおっしゃられて帰られました。
「いや。無事に産まれるかどうかもわからねーからな。何しろ娘は体がちっこいから、長女の出産も早かった上に難産でえらく大変だったんだ。その時にも産まれてすぐ渡部先生にお世話になってな。まったく。閉鎖撤回運動にも参加して、座り込みまでしたっていうのによ。決める時は患者無視して勝手に決めやがって。こんなんじゃ病院も普通の商売と何ら変わらねえじゃねーか。いや。それ以下か?」
「まったく同感です」