妊婦アリス・スターズの話
2011年3月15日
タント君が山道を駆ける。
雪かきの時に道路脇に積み上げられた雪が少し残っているだけで、他は全部溶けている。仕事場もそろそろ春が見えてくる頃だろう。
今日はアリスの最後の出勤日。かれこれ5年は使っていた、100円均一で購入した赤い手提げかばんもいよいよ出番がなくなる。中には今日仕事場に返却するものが入っている。
朝の体操、朝礼の間は応接室で待つ。一応今日までは社員のはずなのに、客になった気分だ。
朝礼が終わり、ソフィアが呼びに来る。食堂兼会議室に入り、ヒースの隣の空いている席に座る。
「えー、アリスさんには6年間、がんばってもらいました。」
ヒースが社員を前に話し始める。ヒースを含めて15人、その半分以上はアリスがここに通い始めたときから、いや、その前の高校3年生の夏休みに1ヶ月アルバイトに来たときから知っている人だ。
入社時18歳、今も24歳と若いため、期待されていた。作業も覚えが早く、女性ならではの繊細さがあり、細部まで気が届いていた。とヒースは言うが、正直アリスはそんな気がしない。
「元気な赤ちゃんを生んでください。」
そう締めくくり、親睦会からの祝い金と職場からのお祝い、それから花束を受け取ると、15人の社員から拍手が沸き起こった。
何か一言を促されたので、アリスも口を開く。
「えー、今までちょうど6年間、お世話になりました。これだけ犬を触ってきたんだから、きっと安産になると信じてます。元気な子を生んできます。ありがとうございました。」
再び拍手が沸き起こり、この職場での最後の朝礼が終了した。
離職票を提出し保険証を返却、会社に提出する秘密に関する誓約書にサインをする。使っていたロッカーを片付け、しばしヒースと雑談する。
お腹にいる赤ちゃん(シンシア)のことの他、先日起きた地震のことも話題に上がった。ここで使用しているドッグフードは関東方面から海路で仕入れているため、入荷できないかも知れない等の話もあった。東北は行った事ないし遠い話題だと思っていたが、思いも寄らぬところで近い問題があったようだ。
持ち帰る荷物をタント君に積み込み、忘れかけていたセコムの鍵と会社の門の鍵をソフィアに渡す。
「赤ちゃん生まれたら知らせてね。」
「また遊びに来ることもあると思います。」
そう言葉を交わし、最後の出勤を終えた。
作品名:妊婦アリス・スターズの話 作家名:アリス・スターズ