我侭姫と下僕の騎士
「お馬さん、違う子ね」
初めて気がついた変化に、クレアは瞬く。
自分達が色街から乗ってきた馬は、栗毛で鼻筋だけに白が入っていた。
そして、今クレアの目の前にいる馬は、全身が黒毛に包まれている。
馬の微妙な顔つきの違いは見分けられないが、さすがに毛色が違えば、違う馬だとクレアにもわかった。
どうして? と不思議そうに瞬くクレアに、イグニスは読み終わったばかりの手紙を手渡す。宛て先は書かれていなかったが、これはクレアへの手紙だ。
「デュラン様からの、少し早すぎる誕生日の贈り物だそうです」
「え? ホント?」
まさか親元を逃げ出した身で兄弟に誕生日を祝ってもらえるとは思わず、クレアは目をしばたたかせる。それも、今年の誕生日にはすでに次兄から別の贈り物を受け取っていた。つまりは、来年の分の贈り物という事になる。
さっと手紙に目を滑らせると、何くれとなく自分を気にかけてくれた次兄の筆跡で文字が綴られていた。
『幸せそうで安心した。これからの君の人生に、幸多からん事を祈っている』
短く綴られた次兄からの手紙に、クレアは頭の片隅に引っかかる物を感じる。
イグニスも同じ事に気がついたのか、クレアの手の中にある手紙へと再び視線を落とした。
「もしかして、どこかでデュラン様にお会いになりましたか?」
幸せそうで安心した、という一文は、どこかでクレアの姿を見かけた、という事になる。
離宮を出てからあった人間といえば、セシリアと宿屋の店主、その息子と――と記憶を探り、クレアは頬を緩めた。
「……会ったかもしれない」
宿の部屋へと盥をもって現れた男に覚えた違和感の正体が、今わかった。
彼に覚えた違和感は、イグニスを見上げても拭い去れない違和感として存在する。
粗末な服を纏った高貴な騎士。
着る者の気品に負けたボロが生み出す違和感。
貴族として産まれついたものが、身につけた品格。
盥を持って現れた男も、どことなく高貴を纏い、姿勢良く佇み、手入れの行き届いた髪をしていた。
「あれ? でも、あの人がお兄様だとしたら、どうしてわたしの顔を知っていたの?」
次兄のデュランといえば、父親とは不仲でクレアが生まれる前から城には近づかない生活を送っている。領地の外れに屋敷を構え、騎士の一人として国境を守り、そこから離れないため、クレアとは一度も顔を合わせたことがない。
クレアが彼の顔を知らないように、デュランもまた妹の顔を知らないはずだ。
「姫様と対面なされることはありませんでしたが、デュラン様は時折姫様の様子を覗きに来られていました」
だからデュランがクレアの顔を知っていたとしても、不思議はない。
「そうなの?」
「はい。でなければ、都合よく姫様が欲しがっている物を誕生の贈り物だ、と贈れるはずがありません」
幼いクレアが自分を慕って纏わりつくのを羨み、よく苛められた覚えがあるイグニスは渋面を浮かべる。
騎士になるためにはまず従騎士として数年誰かに仕えなければならない。しかし、父の従騎士になるのは養母の手前避けたいと悩むイグニスを引き取ったのも、お気に入りの玩具を取り上げればクレアの関心が自分に向くだろう、というどうしようもない理由だった。
目論見どおり毎週のように届いたクレアからの手紙にほくそ笑むデュランの顔を思いだし、イグニスはそっと肩を落とす。
もう一つの失敗に、気がついてしまった。
この文面から察するに、デュランにクレアを連れ戻す気はない。
クレアが幸せであるのなら、イグニスに任せても良いと思っていたのだろう。
となれば、昨夜の逃走劇はすべて無駄となる。デュランに自分達を逃すつもりがあるのなら、雨の中クレアを外套に包み、危険を冒してイグニスが屋根の上を逃走しなくとも、安全な逃げ道が用意されていたはずだ。
宿屋の一室で、デュランからの連絡を待っていたのならば。
なにやらひっそりと落ち込むイグニスに、クレアは何度か読み直した手紙を封筒の中へと戻し、懐にしまう。手離したくないものはイグニスと耳飾りだけのはずだったが、また一つ増えてしまった。
改めて次兄からの贈り物である馬の顔を見ようと一歩近づき、クレアはバランスを崩してよろける。
「あっ!」
「大丈夫ですか?」
「うん」
すぐにイグニスに抱きとめられて、クレアが転ぶことこそなかったが、どうにも歩き難いと足元を見下ろす。
特に何があるわけでもない。
ただ昨夜の名残か、足の付け根に違和感があるだけだ。足をぴったりと閉じるには鈍痛があり、いつものように歩けない。
本当にそれだけだった。
ひょこひょこと奇妙な歩みで馬に近づくクレアを、イグニスは怪訝に思う。
「……身体の方は、大丈夫ですか?」
今更すぎる問いに、クレアは馬の首筋を撫でながら頬を膨らませた。
「そう気遣うぐらいなら、もう少し優しくしてほしかったわ」
ついに長年の想いが叶い、クレアと結ばれたイグニス。
クレアの身柄をいつでも自由に出来る距離に置きながら、落ち着く先を見つけるまではと自主的禁欲生活を続けていたイグニスは、箍がはずれるとすぐに暴走した。
行為の後、クレアの呼吸が整うのを待つと、イグニスは再びクレアを求める。クレアもそれに応えたいと受け入れたが、ほとんど寝る間を惜しむように貪られ続けては体力が持たない。初めてであったし、こういう物なのだろうかとも思ったが、睡眠時間が足りずに昼間の行動に影響が出るようでは、たぶんおかしい。
「……それについては素直に謝罪いたします、姫様」
身に覚えがありすぎて、イグニスは潔く謝罪する。元来素直な性質を持つクレアは謝罪を述べた相手を必ず許すが、今回は何故か唇を引き結んだままだった。
「姫様?」
イグニスが不思議に思うと、拗ねた表情のままクレアが口を開く。
「ク・レ・ア」
「は?」
今更馴染みきった自分の名前だけを言うクレアに、イグニスは瞬く。
「お嫁さんになったのだから、ちゃんとクレアって名前で呼んで」
あと敬語も止めて、と眉を寄せたままのクレアに、イグニスは昨夜の提案を思いだした。
「あ……、はい。その……」
行為の間は我を忘れて散々呼んだくせに、夜が明ければ慣れない呼び名、とイグニスは柄にも無く照れる。
名前を呼ぶまでは一歩も引かない、とじっと自分を見上げるクレアに、イグニスは覚悟を決めた。
「……ク、クレア」
「はい!」
愛しい男の唇から一言だけ呟かれた自分の名前。
クレアはそれが嬉しくなって、花が綻ぶように微笑んだ。