我侭姫と下僕の騎士
抑えられた声音と荷物ごと抱えられた状況に、クレアは遅まきながら事態を理解し、イグニスの指示に従って口を閉ざす。
「逃げ切りますよ」
そう宣言したイグニスに、クレアは無言で大きく頷いた。
先にクレアに宣言したとおり、イグニスは窓から宿の屋根へと上り、屋根伝いに移動し、時には隣の家の屋根へと飛び降りながら、なんとか町外れまで逃げ切った。
途中見下ろした通りでは、何人かの兵士を見かけることとなった。
案の定、自分達の存在はばれていたらしい。
夜の闇と雨に紛れての逃走は容易ではなかったが、クレアが言いつけどおり一言も悲鳴をもらさなかったため、なんとかなった。
さて、馬という足を失ってしまい、追っ手は目と鼻の先。山に入って逃げたとしても、今回ばかりは分が悪い。どうした物かと周囲を探ると、イグニスの視界の隅で黒い影が蠢いた。
追っ手に気づかれたか、とイグニスが顔を向けると、黒い影の正体がはっきりと見える。
黒い影の正体は、人間ではなかった。
「……馬? なぜ、こんな所に……」
雨降る夜に、馬小屋にも繋がれていない黒毛の馬が、天からの恵みのようにイグニスの前に居た。
近寄って確認をしてみると、馬具もしっかりと準備されている。
これならば、すぐにでも乗って逃げることが可能だ。
持ち主に悪いと逡巡はしたが、イグニスは馬を拝借することにした。見知らぬ誰かより、クレアが大事だ。落ち着く場所にたどり着けたなら、必ず信用できる者を作り、その人物の手を借りて返却する、と良心と馬の持ち主に心の中で誓った。
姫君を外套に包んだまま馬の背に乗せ、イグニスは鐙に足をかける。そのまま馬の背に跨ると、時折クレアを振り落としそうになりながらも全力疾走で町を飛び出した。
馬の蹄の跡が残るのは気になるが、雨が消してくれると信じて。
まずは追っ手から距離を稼ぐことが重要だった。