我侭姫と下僕の騎士
「水浴び生活でも?」
――こくり。
「盥のお風呂でも?」
こくり――と頷き、クレアは男に艶やかに微笑んで見せる。
「どんな体験だって……あの人と一緒なら、楽しいわ」
何故初対面の男にそんな事を問われるのか。
何故自分はそれに対して素直に答えているのか。
それはわからなかったが、クレアは心の底から幸せだと微笑んだ。
少年二人を連れた紳士が部屋を出て行った後、クレアは衝立の陰に隠れて服を脱ぐ。
「コルセットがないと、着替えって本当に楽ね。わたし一人でもできるわ」
これまで一人では着替えもできないと言われていたし、自分でもそうだと思っていたのだが、違った。コルセットとドレスの組合せでさえなければ、クレア一人でも着替えはできる。
つまりは、コルセットが全ての元凶だったのだ。
クレアが何も出来ない子だったのではない。
「……温かい」
全ての服を脱ぎ終わり、盥の湯船に浸かる。湯量はクレアの腰の高さ程しかないのだが、そこまでの贅沢は言えない。野宿の間は川を見つけて水浴びをするしかなかったので、雨に濡れて冷えてしまった身体には、温かいお湯に浸かれるだけでもありがたかった。
狭い盥の中で膝を立て、足の指を揉み解す。すごく気持ちがいい。
指の間に肉刺を見つけ、怖々と押さえてみる。痛くはない。見つけたばかりではあったが、すでに治り始めているらしい。
歩き続けると肉刺ができ、それが潰れると地に足も着けないほど痛くなるなんて、離宮で暮らしていては一生経験しなかったことだ。
他に肉刺はないか、どこか痛む場所はないかと入念に足の裏を調べ、クレアは最後に伸びをした。
「……イグニスも、入りたかったかな」
自分がこんなにも気持ちいいのだから、きっとイグニスも気持ちいいと思うはずだ。クレアと同じく、イグニスも野宿の間は川での水浴び生活だったのだから。
クレアの目に入らないよう隠れてはいたが、偶然に何度か見かけたイグニスの裸身を思いだし、一人赤面する。
筋骨隆々と言って良いイグニスの体つきは、女の自分とは違いすぎた。
(そういえば、今夜は……)
寝台のある部屋で、二人きり。
嫁になってくれ、と駆け落ちはしたが、未だに恋人らしいことは何もしていなかった。せいぜいが、口付けをする程度だろう。
花嫁教育として、男女のあれこれを習ったクレアとしては、少々物足りない。
クレアはしばらく二つ並んだ寝台を見つめると、黙々と自分の体を洗いはじめた。
購入したばかりの携帯食料と燃料が濡れないように抱き込みながら、イグニスは辺りを見渡した。
カルバンの領地の外れにある小さな町は、国境が近いこともあり、イグニスと同じ肌の色をした人間が多い。情報を集めるにあたって何人かに話しかけることになったが、旅人かと胡乱気な目で見られる事はあっても、外国人かと相手にされないことはなかった。それどころか褐色の肌をした商人には同郷と見られ、様々な情報と新鮮な果物を一つ分けてもらえた。これはクレアへの土産として喜ばれるだろう。
雨降りということもあって、町中を行き交う人通りは少ないが、いくつかの情報は手に入った。
『黒髪の娘と褐色の肌をした男の駆け落ち者あり。捕らえるよう、追っ手がかかっている』
『男の生死は問わず。娘の方には傷一つ付けてはならない』
『近辺の追っ手を指揮しているのは、領主の次男デュラン』
イグニスにとって必要な情報は、このぐらいだった。さすがにクロードとフィリーの近況まではわからない。――父が上手く立ち回ってくれたと信じるしかなかった。
(……静かすぎないか?)
必要な用件を全て済ませたイグニスは、早足に宿屋へと戻る。宿の玄関ホールへと逃げ込むように入ると、すぐに雨避けの外套を脱いだ。
受付には相変わらず店主が座っている。
自分の足音は聞こえているだろうに、新しい客か? と顔を上げて確認しようともしない店主に不穏な空気を感じた。
――静か過ぎる。
違和感を拭い去るため、あたりを見渡してみたが、自分と店主以外の誰もない。今日は泊り客が少ないと言っていたが、食堂にも誰もいないというのは、どういう事だろうか。すでに夕闇に包まれた時間帯だ。泊り客はいなくても、食堂に食事をしに来る客が一人も居ないというのは、さすがにおかしい。
(外はそんなでも……)
買い物のために出歩いた町中を思いだし、愕然とする。
食堂に客が居ない事実は、味の評判が良くないのだろう、と強引な理由付けもできるが。家々に灯る明かりはあったが、食器がぶつかり合う音も、一家の団欒のひと時にはかかせない談笑も聞こえてはこなかった。
「……なんだ?」
異変を敏感に嗅ぎ取り、イグニスは何気なさを装いながらクレアの待つ部屋へと足を向ける。
二階へと続く階段に一歩足をかけると、階段の影に設置された扉から一対の目がこちらを見つめていることに気がついた。
イグニスと目が合うと、すぐに扉は閉められる。
明らかに、自分の行動は見張られている。
異変は勘違い等ではなく、今、間違いなく起きている。それも、自分を中心に。
確信し、イグニスは見張りの目には気づかなかったふりをして悠然と階段を上る。
廊下の窓に忍びより、外から見えぬよう細心の注意を払って辺りを見下ろせば、暗闇の中、家々の明かりを反射する数人の人影が見えた。
「姫様、ご無事ですか!?」
扉を細かくノックされ、続いた恋人の声にクレアは目を丸くして驚く。
湯浴みは終わったがまだ服を着ていないクレアは逡巡したが、イグニスの切迫した声に、肌着姿のまま扉を開けることにした。
「どうしたの? なにか……」
扉を開けるのと同時に部屋の中へと飛び込んだイグニスは、クレアの顔を見て安堵から頬を緩め、肌着姿に気がついて僅かに目を逸らす。衝立にかけたままのクレアの服に気がつくと、再び表情を引き締めた。
「これを持ってください」
そう言って買ったばかりの荷物をクレアの手のひらに載せると、イグニスは大股に歩いて部屋を横切り、衝立にかけてあったクレアの服を掴んだ。
「あと、これとこれも」
自分の服と全ての手荷物を渡されて、クレアはふらりとよろける。
「……重い」
思わず口からもれたクレアの不平に、珍しく構うことなくイグニスは外套を広げた。
「我慢してください。一番重い物は、私が持ちます」
全ての荷物を自分に持たせて、この上一番重い物なんてあるのだろうか? とクレアが荷物を抱え直すと、先程まで雨に濡れていたとわかる冷たい外套に頭からすっぽりと包まれた。
「え?」
「しばらく口を閉じていてください。落ちたり上ったり、振り落としそうになったりするかもしれませんが、絶対に手放しませんので、そこだけはご安心を」
つまり、一番重い荷物とは、クレア本人のことである。
「え? え?」
咄嗟に事態が飲み込めず、クレアは目をしばたたかせるが、イグニスにはそれに構っている時間はなかった。
ひょいっと荷物ごとクレアを抱き上げると、もう一度窓の下を確認する。
「馬は惜しいですが、たぶんもう無理です。取りに行けば捕まります」