我侭姫と下僕の騎士
【9章】姫君と騎士
「……苦しかった」
「すみません、姫様。大丈夫でしたか?」
「怖かったけど、平気よ」
まさか、本当に宣言どおり落ちたり上ったり、振り落とされそうになるとは思わなかったが。
町からある程度距離を稼いだと判断したところで、イグニスは街道から山道へと馬の鼻を向けた。身を隠せて雨も避けられる場所はないかと探し歩き、なんとか見つけた洞へと滑り込み、クレアはようやく雨避けの外套から開放されることとなった。
ホッと息を吐き、変な姿勢で馬に乗せられていたために凝った身体をクレアが揉み解していると、イグニスが荷物の中から手拭を取り出す。
「とりあえず、姫様は身体を拭いてください。私は火をつけますから」
「……わたし、やってみたい」
差し出された手拭を黙殺し、クレアはイグニスの手に握られた固形燃料を見つめた。
「身体を拭くのが先です」
状況も弁えずに我侭を言いはじめたクレアに、イグニスは一瞬だけ辟易したが、足された言葉に苦笑を浮かべることとなった。
「イグニスの方が濡れているわ」
クレアは湿り気を帯びていたとはいえ、雨避けの外套に包まれていた。反対に、イグニスは機動力を重視し、雨具など何も着けずに雨の中を走り回った。
どちらがより多く濡れ、身体が冷えているかは考えなくともわかる。
「……では、お任せします」
守るべき姫君に気を使われているなど、騎士としては心苦しいが。
失敗は多いが、全てを他人任せにはしなくなったクレアの努力が愛おしい。
野宿の合間にイグニスが何度か教えたことを口に出して確認しながら、クレアは固形燃料に火をつけるため、奮闘する。
イグニスはそれを横目で見守りながら服を脱ぎ、絞る。服を着たまま水浴びでもしたのかと疑いたくなるほど搾り出された水に、自然と苦笑が浮かんだ。
悪戦苦闘するクレアの横で、イグニスは服を手拭代わりに馬の身体を拭いてやる。これからしばらく世話になる相棒だ。風邪をひかれてはイグニスもクレアも困ってしまう。
イグニスが馬の身体を拭き終わる頃、洞の中にクレアの明るい声が響いた。
「ついた!」
小さな火のともった固形燃料を指差しながら、クレアはイグニスを振り返る。
「見てみて、イグニス。わたし、火をつけたわ」
「上出来です」
道具さえあれば誰にでも容易にできることではあったが。
むしろ、イグニスが作業する十倍以上の時間がかかったが。
はしゃいで自分の成果を語るクレアに、そんなツッコミを入れるほどイグニスは野暮ではない。
クレアの笑い声と固形燃料にともった火のおかげで明るくなった洞内で、イグニスは未使用の手拭を持ってクレアに近づく。
今度こそ、濡れたクレアの身体を拭かねばならない。そう思って近づいたのだが――途中で足を止めざるを得なかった。
「イグニス?」
足を止めたイグニスを不思議に思い、クレアは小さく瞬く。
それを見たイグニスは、そっと視線をクレアから逸らした。
正確には、湿ってクレアの身体へと張り付いた肌着から。
もっと言うのなら、透けて見える白い双丘の頂を飾る朱鷺色の突起から、目を逸らした。
「とりあえず、身体を拭いてください。それから、服を……」
差し出された手拭をクレアが受け取ると、イグニスはぐるりと背を向け、少し前までクレアを包んでいた外套を広げた。肌着のクレアを包み込む際に、荷物と一緒に服も持たせたはずだ。外套を広げれば、中からクレアの服が――出てくるのだが、一緒に包まれていたクレアが濡れていたように、服もまた水分を含んでしまっていた。
「……そのうち乾くわよ」
なにやら落ち込んでいるとわかるイグニスに、クレアはそっと声をかける。
服など放っておいてもそのうち乾く。とはいえ、乾くまでは着たくないが。
「……申し訳ございません」
「なにが?」
「おそらく、私が宿の店主の前で姫と呼んだことが原因でしょう」
町の中には自分と同じ肌の色をした人間が多くいた。クレアの黒髪も、別段珍しいものではない。それなのに、宿の周りは追っ手に囲まれていた。
原因といえば、自分の失敗以外は思い浮かばない。
珍しくも肩を落としたイグニスに、クレアは「ああ、そういうことか」とのんびりと理解した。
イグニスの失敗を、二度と繰り返さないための解決法はひどく簡単だ。
「ね、イグニス。前から気になっていたのだけど……。いつまでも『姫様』って呼ぶのは、どうかと思うの」
「は?」
「だって、一応駆け落ちでしょ? 恋人なのよね?」
それらしい事は何もしてくれないが。
姫君と騎士という関係から、駆け落ち中の恋人となったはずなのだが、イグニスはクレアに口付けしかしない。それも、クロードの持つ艶本から仕入れた知識によれば、子どもの口付けだけだ。大人の口付けは、未だにされたことがなかった。
もじもじと恥じらってイグニスの表情を盗み見ながら、クレアはひとつの要求をした。
「そろそろ、名前で呼んで欲しい……なんて思っているのだけど」
普段から名前で呼んでいれば、咄嗟に姫とは出てこないだろう。
単純かつ明快で、どこにも否定要素のない提案に、しかしイグニスは苦い顔をした。
「そ、それは……いいえ。やはり、せめて落ち着ける場所が見つかるまでは、姫君と騎士のままでいたいと思います」
「なんで?」
「その……」
全裸よりも扇情的な姿をしたクレアに上目遣いに見つめられ、イグニスとしては答えにくい。見てはいけないと思いつつも、視線はチラチラとクレアの顔と透けた肌着とを往復していた。湿気を含んで頬に張り付く黒髪もまたイグニスの獣欲に火をつける。
「ただの男と女になってしまったら、……何もしないでいられる自信がありません」
じっと自分を見つめるクレアの視線に耐えかねて、イグニスはとうとう白状した。
「……むしろ、そろそろ何かして欲しい……です」
イグニスの言葉を理解したクレアは、頬を薔薇色に染めて目を逸らす。
自分の言葉の意味も、イグニスの言葉の意味も、理解していた。
「わたしを、お嫁さんにしてくれるのでしょ?」
恥じらいから瞳を潤ませる愛しの姫君。
肌着はまとっているが、双丘の蕾までもが透けて見える淫靡な乙女。
「わたしを、お嫁さんにしてください」
そうはにかみながら、クレアは口にした。
地面に敷かれた毛布の上に座り、クレアは落ち着きなく視線を彷徨わせる。気恥ずかしさを誤魔化すように、毛布の毛を爪で引っ掻いた。
結局。
その気になったイグニスが、コトに及ぼうとクレアを押し倒したまでは良かったのだが――雨降りの深夜。ようやく見つけて飛び込み、火を起したばかりの洞の地面は、当たり前の事だが冷たかった。
背中で感じた冷気にクレアが悲鳴をあげると、それならばとイグニスは毛布を取り出した。
雨避けの外套とクレア本人、着る間のなかった服と荷物袋に守られた毛布は、湿ることなく暖かかった。
これは良い物を見つけた、と早速地面に敷き、クレアの身体を横たえて――乾いた毛布は濡れた肌着の水分を吸いはじめ、湿り気を帯びてしまった。
すぐさま気がついて毛布から降りたため、我慢できない程湿ることはなかったが。