我侭姫と下僕の騎士
思いのほか大きな声で窘められ、クレアは目を丸く見開く。すぐに唇を尖らせて、わざと拗ねて見せた。
「クロードの意地悪」
独特のアクセントをつけて呼ばれた名前に、イグニスは背筋を伸ばす。咄嗟のことに、ついいつものように姫と呼んでしまった。
無表情を装って店主を振り返ると、イグニスの言葉になど気づかなかったのか、店主は苦笑を浮かべていた。
「この町には風呂屋があるから、うちには風呂はないよ」
「……そう」
ほんの少し贅沢を言ってみただけなのだが。しゅんっと肩を落としたクレアに、苦笑を浮かべたままの店主が一言つけたした。
「盥でよければ、あとでお湯と一緒に用意してあげるよ。狭くて悪いけどね。こんな天気で、また外に出るよりはいいだろう」
「ホント!?」
「今日はお客も少ないからね。サービスしとくよ」
店主の提案にクレアは歓声を上げて喜ぶ。足取り軽く、イグニスと店主を追い越して残りの階段を上りきると、うきうきと踊りながら廊下に点在する扉の番号を確認しはじめた。
「……うちの我侭姫が、手間をかける」
わざと印象つけるように『姫』と呼び、イグニスは店主を観察する。今更姫と呼んでしまったことを否定すれば、そちらの方が怪しく、店主の記憶に残る恐れがある。ならばいっそのことわざと姫と呼び、愛称か何かだと誤解させておく方が得策だ。
イグニスの探るような視線には気づかず、店主は先に行ったクレアを視線だけで追い、あいも変わらず苦笑交じりに答えた。
「いいってことよ。あんだけ可愛い恋人だったら、本物のお姫様みたいな我侭も許してやりたくなるさ」
うちの女房も若い頃は町一番の美人で、俺にとってはお姫様だったもんよ、と惚気はじめた店主に、考えすぎだったかとイグニスは緊張を緩めた。
先に用事を済ませてくる、と言ってイグニスが部屋を出て行くのを見送り、残されたクレアは暇を持て余す。
本当ならば町中まで付いていきたかったのだが、雨降りという事もあり諦めた。元々自分達は追われているはずだ。二人一緒に行動することも控えた方が良い。
寝台に腰を下ろして靴を脱ぎ、足を伸ばしながら窓の外を眺める。
宿の店主が盥を持ってきてくれると言ったが、いつ頃になるのだろうか。
あくまで店主の好意なので、催促することは憚られた。だが、久しぶりに湯に浸かれると、クレアの心は弾む。
「……盥を持ってきました。こちらの部屋でよかったですよね?」
「はい! ここです!」
ノックと同時に聞こえた男の声に、クレアは喜んで寝台を飛び降りる。裸足のまま扉へと近づくと、そのままの勢いで扉を開いた。
扉の向こうには、三十代半ばだろうか。少なくともイグニスよりは年上とわかる男が、不釣合いな盥を持って立っていた。
(……宿の人の息子さん、かな?)
一瞬覚えた違和感に、クレアはまじまじと男を観察する。粗末な服を纏ってはいるが姿勢が良く、髪も手入れがされていた。
どこにもおかしな所はない。
それでも拭い去れない違和感にクレアが戸惑っていると、男は困ったような微笑を浮かべた。
「えっと……部屋に入ってもいいですか?」
「え、ええ」
クレアが道を譲ると、盥を持った男に続いて大きな水瓶を抱いた少年が二人、部屋の中へと入ってくる。重たい水瓶のせいで時々ふらつく少年達を見つめ、クレアはますます奇妙な気持ちになった。
何がおかしいのかはわからないが、何かがおかしい。
困惑したままクレアが男を見上げると、男は何やら嬉しそうに笑みを深めている。微笑まれる理由のないクレアとしては、客商売とはこういう物なのか、と拭い去れない違和感に無理矢理蓋をした。
「失礼します」
一言断ってから水瓶を床に降ろし、少年二人はかいがいしく湯浴みの場を整える。
衝立を移動して扉の前に置き、手拭と足拭き用の布を用意し、手際よく準備を進め――ぴたりとその手を止めた。
「あ、あの……ご主人様」
僅かに逡巡しているとわかる声音に、クレアは視線を少年達に向ける。眉間に皺を寄せた少年達はクレアにではなく、一緒に来た男を見つめていた。
「ああ、そうだった」
手にしたままの盥に気がつき、男はそれを床に降ろす。盥が男の手にあるままでは、いつまで待っても湯浴みはできない。
やっと床へと降ろされた盥に、少年達は場所が気に入らなかったのか、盥を衝立の側へと移動させた。
「大丈夫?」
そっと盥に水瓶を傾けた少年に、クレアは傍らに腰を下ろして問う。
どう見ても重そうな水瓶だ。
おそらくは、自分では持ち上げることもできない。
「あの……?」
大丈夫かと聞いてはみたが、はいともいいえとも答えない少年達に、クレアはいぶかしむ。
「気にしないで。こういうモノだから」
使用人とは本来こういう物だ。主人から話しかけなければ答えられないし、日常の雑務は主人の目を穢さないよう、前もって片付けておかなければならない。
今のように、客人を前にして湯浴みの準備を整える方が珍しいのだ。
使用人の扱い方を知っている男に、クレアは視線を戻す。
「……普通、重たい物って、大人が持たない?」
今の場合なら、目の前の男が。
少年達の主人という意味では男が優位なのかもしれないが、クレアを客人とするのなら、男と少年達の立場は同じだ。
「それもそうだったね。君、かしたまえ!」
クレアの疑問にもっともだと頷いた後、男は少年のもつ水瓶へと手を伸ばす。それに気がついた少年は、ようやく反応らしい反応を見せた。
「は? いえ……」
「かしたまえ!」
狼狽する少年から水瓶を取り上げ、男は盥へと湯を注ぐ。少年の細い腕とは違う、大人の男性の腕に抱かれた水瓶は、しっかりと支えられて傾けられた。
(……イグニスと同じトコに胼胝がある)
水瓶を支える男の手の平に胼胝を見つけ、クレアはこっそりと笑う。
声に出したつもりはなかったのだが、男はそれに気がついて苦笑を浮かべた。
「……面白いかい?」
こんな単純な作業を観察していて。
男にしてみれば面白いものなど何もないと思うのだが、クレアは楽しそうに笑う。
「ええ、盥のお風呂なんて初めて。今から楽しみよ」
さらりと答えたクレアに、男は驚いたように瞬いた。
「初めてって……これまではどうしていたんだい?」
「川があったら、水浴びをしたわ」
驚いた顔をした男が面白くて、クレアはコロコロと笑う。
「わたし、川遊びも初めてだったから、苔に滑ってお尻を擦りむいちゃったのよ」
「それは……大変だったね」
「どうして?」
「どうしてって……」
「楽しかったわよ。お尻は痛かったけどね」
離宮を出てからというもの、初めての体験づくしで、退屈を感じる暇がない。痛かったり疲れたりすることもあるが、それら全てが新鮮で楽しい。イグニスはそんな生活をクレアに強いていると気にしているが、クレア本人にしてみれば毎日がお祭のようで楽しかった。
「……一緒に来た男の人は、恋人かい?」
「え? ええっと……」
不意をつく質問に、クレアはほんのりと頬を染める。
恋人か、等と正面から聞かれたのは初めてだった。
「一緒にいて幸せ?」
照れくさくて声に出しては答えられず、男の問いにクレアはこくりと頷く。