我侭姫と下僕の騎士
フィリーに袖を引かれるままクレアの寝室へと入り、寝台に触れてみたが、ぬくもりはない。冷えきった寝台からは、とてもではないが早起きをしたクレアがこっそりと部屋を抜け出し、散歩を楽しんでいるとは思えなかった。
室内を見渡してみたが、特に荒らされた形跡もない。
扉以外の出入り口といえば、露台へ続く窓ぐらいしか――と窓を確認してみれば、鍵がかけられていなかった。
「まさか、ここから……?」
露台から脱走したのではないかと思ったが、クロードはすぐにそれを否定する。
クレアの部屋は二階にあり、とてもではないが飛び降りられる高さではない。
少なくとも、クレアには無理だ。
なんの軍事訓練も受けてはいないし、その必要もないのだから。
だが、しかし。
本当に、ただの可能性の話ではあったが。
兄であれば、どうだろうか。
兄は姫君とは違い、クレアを守るために騎士として様々な体術を身につけている。
身体つきもクレアとは違う。
筋肉の鎧を纏い、足腰も人並み以上に丈夫。
クレア一人ぐらいなら、抱いたまま露台から飛び降りる事も可能なのではないだろうか。
兄ならば強靭な膝をバネにし、落下の衝撃を大地へと逃がして。
兄ならば。
ブランデー入りの紅茶をクロードに盛った兄ならば。
「ええいっ! 忌々しいっ!!」
豪奢な執務机を蹴りあげ、カルバンは声を荒げる。
カルバンの怒りの元となった報告を運んだカーラは、肩を竦めて城主の苛立ちが治まるのを待つことにした。このままでは、まともに話もできない。
危惧していたことが起きてしまった。
それも、姫を守ることが役目であったはずの騎士の犯行という、最悪な方法で。
侍女からクレア失踪の知らせを受けたカーラは、その足で城主の元へと走る。
緊急事態、と城主の返事も待たずに執務室の扉を開ければ、中からティーカップが飛んできた。咄嗟のことにカーラは頭を庇ったが、ティーカップが彼女の身体に当たることはなかった。カーラより早く執務室へと駆けつけていた壮年の騎士――イグニスの父親が――カーラの盾となり、額でティーカップを受けたからだ。
額から一筋の赤い雫を垂らした男に、僅かにカルバンの溜飲が下がる。騎士がティーカップを避けていたら、ますます興奮していたことだろう。騎士の方も、それがわかっているので、自らを盾としたのだ。
そうしてカルバンの興奮を治めた騎士ではあったが、怒りを静めることはなかった。
姫君を攫った不義理者の親族としての責を問われた騎士は、あろうことかこう言った。
『愚息の姫君への思慕が騎士のそれを超えていることは薄々感じていた。少し頭を冷やせと、数日前より屋敷にての謹慎を申し付けてあった。それを破るようなことがあれば、親子の縁を切るとも伝えてある』
親子の縁は切ったのだから、あれはもう息子ではない。息子ではない男がしでかした不始末を、他人である自分達が問われる覚えはない、と。
ただの屁理屈でしかなかったが、言葉通り、イグニスがここ数日離宮を離れていたことはカルバンも知っている。
親でもなければ子どもないと言い切られ、一切の関与も援助もしていないとなれば、カルバンにもこれ以上の追求は出来なかった。
元々イグニスの方も、養母に対する遠慮からか疎遠であったことが災いした。騎士の息子として実家で過ごした時間よりも、クレアのために離宮で仕えた時間の方が長いのだ。姫君を攫ったイグニスを育てたのは城であり、実家ではない。
守るべき姫君を攫うような騎士を育てたのはおまえだ、と遠まわしに責められ、カルバンは臍を噛む。
事実であるだけに、憎らしい。
壮年の騎士を下がらせた後も治まらぬ怒りに、カルバンはなおも執務机を蹴りつける。机の上にあった花瓶、ティーセット等の陶器類は八つ当たりの対象となり、絨毯の上に散乱していた。仕立ての良い椅子も、乱暴に何度も蹴りあげられてついには足が折れている。最後に残った八つ当たりの対象は、執務机と――
「……弟の方はどうしている!?」
暗い光を宿したカルバンの黒い瞳に、カーラは腹に力を込めた。ここでクロードを差し出してしまえば、彼には陶器や椅子と同じ運命しか待ってはいない。
「すでに、姫様の捜索にあたっております」
「信用できるか! 兄と合流して逃げるやもしれん。呼び戻せ」
「恐れながら申し上げます。お館様が姫様を大切にお隠しになって育てられたため、騎士の中には姫様の顔を知る者がほとんどおりません」
カルバンの自慢話しや可愛がり方から、相当愛らしい姫君に違いないと、クレアの美貌は噂話としては知れ渡っているが。
実際にクレアの顔をみたことがある者は稀だ。
「クロードを呼び戻してしまえば、たとえ姫様を見つけられたとしても、誰も姫様と確認する事ができません」
だから、クレアを見つけ出すためにはクロードをカルバンの生贄に差し出すわけにはいかない。
「おまえの娘がいるではないか!」
「フィリーも他の騎士とともに姫の捜索に当たっております」
本当であれば、カーラとてカルバンの相手をしているよりもクレア捜索に向かいたかった。
愛らしい姫。可愛らしい末娘と、人目に触れぬよう、大切に隠し育てたことをカルバンは激しく後悔した。
父親だけを愛するように、依存するようにと、他人の目から隠した結果がこれだ。
クレアの顔を知る人間は、恐ろしく少ない。
侍女と乳母、姫付きの騎士と庭師、十四人いる兄弟・姉妹と母親の侍女。後は先日クレアのための装飾品を発注する際に目通りさせた細工師達ぐらいだ。
四方八方に捜索隊を飛ばすのならば、誰一人として呼び戻す余裕はない。
邪心を抱く者から娘を守ろうとした父親の邪心そのものが、仇となった。
夜明け直前の青い世界に包まれながら、クロードは白々と明けてくる空を見上げる。
今夜も徹夜だった。
もう一週間、ろくに眠っていない。
兵を率いて馬を走らせ、関所を封じ、寝る間を惜しんで捜索しているのだが、未だにクレアもイグニスも見つからなかった。
街道を使って逃げてはいないのだろうか。山狩りの準備も進めてはいるが、なんとか二人がカルバンの領地を出る前に見つけ出したい。流通に影響が出てしまうが、いっそ街道も完全に封鎖してしまいたかった。
公爵へと嫁ぐことが決まった姫君の出奔などと、醜聞を広めることを拒んだカルバンにより、そこまでは出来なかったが。
(兄上……)
兄のしでかした事が、クロードにはどうしても理解できない。思慮深い兄が、主家の姫を攫って逃げるなどと、今でも信じられなかった。
(どうせまた、姫様の我侭なんだ。兄上はただ、姫様の我侭に振り回されて、一緒に行動をしているだけなんだ)
決して、兄が自分の意思で姫君を攫ったとは思いたくない。
沸々と湧き上がる怒りに、クロードは唇をかみ締める。
思えば、初対面からして気に入らない姫君だった。イグニスはクロードの兄であるのに。かの姫君は、イグニスは自分の物だとばかりに兄を独占していた。
兄も兄だ。
異なる母を持つとはいえ、同じ父を持つ弟よりも、一滴も血を共有しない姫君を優先してきたのだから。