我侭姫と下僕の騎士
【7章】残されし人々
(まあ、クロード様ったら)
寝室へと続く部屋の扉を開けたフィリーは、その門番たる騎士の姿を認めて苦笑を浮かべる。
寝室の扉を守護するべき騎士は、扉の前に用意した椅子に陣取り――正体なく居眠りをしていた。
(お館様が最近大人しいからって、油断しすぎですわ)
湯殿での一件以来、クレアは自分に対するカルバンの愛情が非常に危うい物だと自覚させられた。
これまではクレアのお茶の時間にカルバンが同席する際には、給仕のためのフィリーは入室を許されていたが、イグニスとクロードが入室することは許されていなかった。娘と親子水入らずで午後のひと時を楽しむのだから、暑苦しい男の顔など見たくない、というのがカルバンの言だった。
ところが、湯殿での一件以来、クレアはカルバンと二人きりになることを嫌った。
必ずイグニスか乳母を同席させなければ、カルバンとお茶をともにする事を受け入れはしなかったのだ。
愛娘に嫌われる心当たりがありすぎるカルバンは、文句も言わずこれに従った。
にこりとも笑わない第五夫人とは違い、妻と酷似した容姿をもつ花のように愛らしいクレアは、カルバンを父親としては慕っている。
満面の笑顔をもって迎え入れてくれる美姫に、嫌われて得はない。
嫁ぐまでの数ヶ月、余計なコブはついていようとも、末の姫との時間は楽しみたい。
そう考えたのかはフィリーにはわからないが、イグニスがクレアの警護をクロードに任せられるぐらいには、カルバンは大人しくなった。
「クロード様。イグニス様だったら、居眠りなんてなさりませんわよ」
フィリーは水差しを抱いたまま、そっとクロードの肩を揺り動かす。何度か肩を揺らすと、微かにクロードの睫毛が震えた。
「……あ?」
焦点が合わない目でパチパチと瞬いた後、クロードは目の前に立つフィリーに気がつくと一気に覚醒した。
「あ! いや……」
「よくお休みになられたようですね」
ほんの少しだけ詰問口調になったフィリーに、クロードとしてはばつが悪い。照れ隠しに後ろ頭を掻き、視線を泳がせた。
「いや、昨日は、つい……」
居眠りを現行犯で見つかってしまったどころか、起されるまで人が部屋に入って来たことにすら気がつかなかったクロードとしては、ひたすら気まずかった。
一人で失態の原因を探ってみるのだが、何も思いだせない。
特に変わったことはなかったはずだ。
昨日も一日クレアの側にいて、特別疲れるような仕事もなかった。
うっかり居眠りをしてしまうような要因はなかったはずなのだが、現に今の今まで眠っていたので、言い訳はできない。
結局これと言った原因を見つけることができず、クロードは頭を垂れた。
非は自分にある。叱責は甘んじて受けるしかない。
「兄上が紅茶を差し入れてくれて、これは背が非でも飲まなければと……」
未練がましく口を開き、思いだす。
ひとつだけ、常とは違うことがあった。
昨夜はまだ早い時間に、兄が自分の様子を見に来てくれた。紅茶と茶菓子などの差し入れと共に。
「……あれ? 確か、まだ残っていたと思うんだけど……?」
イグニスの持ってきた紅茶を、飲み干した記憶がない。それなのに、卓の上にはティーカップはおろか、菓子の包み紙一つ残っていなかった。
せっかく兄が差し入れてくれたのだから、腹は空いていなかったが、後で残さず頂こうと思った記憶はあるのに。
居眠りをしてしまった自分の代わりに、兄が片付けてくれたのだろうか。
そう考えて、クロードは違和感に気がつく。
自分が居眠りをはじめたのならば、姫君の守りがおろそかになる。
それを承知でイグニスが部屋に戻るはずがない。
自分を起して窘めるか、イグニスが姫君の見張りをするはずだ。
間違っても、眠るクロードを放置して自室に戻る兄ではない。
「……兄上は、いつ戻られたんだろう?」
数日前より離宮を離れることが多かった兄は、珍しくも家の方に足繁(あししげ)く通っていると父親から聞いた。イグニスが離宮に居ない事が多かったから、自分がクレアの側に居たのだ。これは間違いない。
「役目を怠った言い訳なら、もっと上手にしてください」
なにやら考えこみはじめたクロードに、フィリーはツンっと顔をそらす。大事な姫君の護衛であるくせに、居眠りをした罪は重い。後でクロードに対しては一番効く制裁を与えてやろう、とこっそり『イグニスへの報告』を決定事項として胸に秘め、フィリーは姫君が眠る寝室の扉を開く。
まだ姫君が眠っているのなら起してはいけないと、そっと音を立てないように足を踏み入れ、扉を閉めた。
いつもより目覚めの遅いクレアが気になるが、数日前より様子がおかしい事には気がついている。フィリーとしても出来る限りそっとして置いてやりたいので、いつもの起床時間だからと叩き起こすような真似はできなかった。
音を立てないよう慎重に水差しの水を入れ替える。
無事に作業が終わると、フィリーはほんの少しだけ悪戯心を出し、クレアの寝台へと近づいた。
そのまま眠れる美姫の顔を拝見しようと、寝台を覗き込み――
「……ひ、姫様!?」
姫君が眠っているはずの寝台に、誰も眠っていないことに気がつき、フィリーの声が裏返った。
「姫様? 嘘、冗談ですよね?」
目の錯覚か? と寝台を叩き、そこに人が居ないことを確認する。スカスカと空を撫で、掛布を捲る。元から誰かが寝ていた膨らみのなかった寝台は、掛布を退かしてもやはり誰も寝てはいなかった。
では、姫君はいったいどこに、と混乱した頭でフィリーは寝台の下を覗きこむ。クロードはそこに艶本を隠していたが、クレアが隠れていることはなかった。
他にクレアが隠れそうな場所は、と寝室に首を巡らせて見たが、人が隠れられそうな場所はない。
「……ク、クロード様!」
一晩中扉の前にいたはずの青年を思いだし、フィリーは寝室を飛び出した。
続き部屋の扉の前でいまだ何事か思案しているクロードを見つけると、フィリーは仕立ての良い袖を捕まえて詰め寄る。
「クロード様、姫様がいません!」
「そんな馬鹿な。いくらなんでも、内側から扉を開ければ僕が起きないわけは……」
言いかけて、不意に気がついた。
普通、差し入れをするのならば深夜だ。小腹が空いた頃に夜食となるものを持ってくる。それなのに、クロードはイグニスの持ってきた茶菓子に手を着けなかった。
小腹が空いていなかったからだ。
まだ早い時間に兄が差し入れを持ってきたため、腹の容量的に口にすることができなかった。
今思えば、茶菓子と一緒に運ばれてきた紅茶も、珍しくブランデー入りだった気がする。ティーカップに口をつける瞬間、ほのかに甘い香りがしていた。
クロードはけっして酒に強い方ではないが、紅茶に混入するスプーン数杯のブランデーに酔いつぶれるはずもない。
それなのに、昨夜兄と別れた記憶も、飲みかけたはずのティーカップも卓上には残ってはいなかった。
次々と思いだされる『昨夜の差し入れ』に、クロードの血の気が失せる。